「自分の想定」は信用しない。むしろ想定外の方が面白い。
世の中の色々なことに出会い、体験するように動いてきた結果、ちょっとしたことでは動じなくなったと思っていた。
そう、実家に戻るまでは。
皆さんは、日常のどれぐらいが自身の想定範囲内の出来事なのだろうか?
たとえば、
ガラス戸のカーテンあけたらカーテン色のトカゲが張り付いていたり、
お風呂に入ったらカマドウマが3匹のさばっていたり、
布団に入ったら天井から頭にムカデが落ちて来てハサミで戦うことになったり、
外出しようとしたらスニーカーにトノサマガエルが移住してひからびかけていたり、
夜の散歩に出たら、気の荒いアライグマに遭遇して脅かされたり、
外で荷物整理していたら、アリに北斗の拳並みにアチャチャチャチャと刺されたり。
そういう場面になったとしても、
平常心、平常心。。
、、、、無理やし笑!!
10年離れて東京のマンションに住んでいたら、自然や生き物と共存している感覚がすっかりなくなっていたもんだから、すごいメンタルのリハビリで毎日ドキドキ。
自然と生き物の中に人間が住んでいるので、生まれては次の生のために死にゆくドラマの繰り返し。その輪廻転生の真っ只中にいる自分を実感している。
そのため日々予期せぬことがおきる。
そして、それに対する判断と対処に追われる。
はじめから分かっていたことなのだが、改めて東京での生活と全然違うことを今更感じる。
効率的に無駄なものは捨て、最新のものに常に取り替えてひたすらはやくはやく前へ前へ進むシステムの都市と、より大きな自然の摂理の中で、誰もがゆるやかに最後の日に向かい、輪廻転生を繰り返す地方と。
どちらも必要だが、「古くなる、老いる、朽ちる、再生する」ことに繊細になれるのは地方だと思う。
ゆるやかに後退し、次の生へ交代していく。
そして生きることへのありがたみと真摯さ。
限りある命と自然の摂理を五感で思い知る。
日が登れば沈む。
生まれたら死ぬ。
食べたら排泄する。
政治が変わっても、国がなくなっても、人類が滅んでも、地球がなくならない限りは
ずーっとその繰り返しを紡いでいく。
それに対してなんの例外も存在しない代わりに、何の見返りも評価も求めない。
その点で、都会は地方よりも仕事にシビアかもしれないが、地方は都会よりも生に対してシビアであることは間違いない。だからこそ都市の経験があって、地方を拠点に生きていく感覚が手に入れば多分どこでも生きのびていける。(のではないかと思っている)
良くも悪くも東京で暮らすことと比較したときのギャップがどこまでかが身を以てわかる。
この何もない状況においていかにパイプを作っていくか。
それは、わたしが今感じる途方も無い無力感よりも、新たな暮らしを作る好奇心と探究心がどこまで強いのか試す良い機会でもある。
すべてのことは、自分で体験してみないと一生わからないし、比べられないし、自分ごととして乗り越えることもできない。
頭で考えることも勿論必要だが、うまくいく保証を探していても実際にその通り物事が運ぶとは限らない。それなら「うまく行かせる決意」の方が強ければ、最後は意外となんとでもなるもんだし、途中で心が折れそうなときにも「自分の意思」として支えとなってくれる。心の持続力が全然違うのだ。
そしてその決意を強めるには、まず自分が今向き合っていることに真摯に取り組むことだ。たとえ、それが自分に向いてなかろうと、努力しても下手であろうと、納得するレベルや期間まで探求してみる時間がなければ、本質がわかる前に挫折してしまうかもしれない。それでは夢中になれるかもしれないことや、強みになるかもしれないことを自ら逃してしまうことになる。
それは非常に勿体無い。
だからこそ、やり始めて本当にそれが自分にとってやめるべきものかどうか見極めるために、「石の上にも三年」なのだ。
求められる技術や物事の移り変わりが早い現代で三年は難しいかもしれないが、向き合って相応の時間が立たないと理解できない物事もある。
それをスタートの印象で逃してしまったり、切り捨ててしまうのは惜しい。
頭と身体は違う。
生存本能として、頭は何かとリスク回避したがる。だからこそ現状維持を求めるし、何かを始めるときの抵抗も大きい。
苦手じゃなくても苦手だと思い込むし、キライじゃなくてもキライだと信じてしまう。
だから、身体の感覚で確かめること、つまり五感を鍛えて総合的に判断、理解することが必要なのだ。
考えながら動く、というのは案外そういうことのように思う。頭の中の完璧さを求めても、最後の最後は机上の空論でしかない。
それは旅も同じ。
だからわたしは、自分の頭をあまり信用しないようにしている。
そのため、しばしばリスク評価をやりきらずに先に動いたりする。だから退職するときの決断の不安は、退職してから初めて感じているし、Uターンの不便さや、望む生活の難しさはUターンしてから初めて感じている。
逆に考えると、わたしは無力さの極致にいるわけで、これからそれ以上に無力な経験をここですることはない。
だから、1日にひとつでも前に進むことがあれば、後は芋づる式に良くなるしかないのだ。
それは、おみくじで大凶を引いたので、次に引くときはこれより絶対悪くはならない安心感、のようなものでもある。
ちなみにわたしのおみくじはいつも末吉しかでない笑。ここ5年ほどはずっとそうだ。
目先は思うように行かないことが多い、しかれども精進すれば最終的にすべてうまくいく。
なんて良いおみくじなんだろうか。
目先の大吉や中吉よりもこれからの希望があるし、長期スパンで考えることに勇気をくれる。
なので、自分も皆も末広がりに繋がれるような生き方を目指し、物事の速さや雑さを抑えて何にでも丁寧に取り組むことを心がけていきたい。それが、ここでの時間の流れに合った暮らしになっていくのだと思う。