【BOOK】庶民の旅を広めた江戸社会のタテマエとホンネ
人類の歴史を辿ってみると、古今東西、人々は絶えず旅をしていた。ただ、旅欲というものは食欲や睡眠欲ほど切実なものではない。そしてその時代の社会的環境によって、著しく制限されることにもなる。その意味で、社会が政治的・経済的に安定していないと旅の発達はありえないことは、テロやパンデミックなどの世界的な脅威を踏まえてもわかる。また、社会の安定期・成長期には個人の旅欲が湧くのも現代の世界の大移動の様子を見ると火を見るよりも明らかである。
東海道名所記には、「愛おしき子には旅をさせよといふ事あり。万事思ひしるものは旅にまさる事なし。鄙の永路を行過るには、物憂き事、うれしき事、腹のたつこと、おもしろき事、あはれなる事、恐ろしき事、あふなき事、をかしき事、とりどり様々なり。」
と書かれている。可愛い子には旅をさせよ、というアレだ。(昔の私は「可愛い子はモテるからいろんな出会いを見つけるために旅に出させるのだ」と真剣に思っていた)
200年前の旅はどういうものであったのだろう。戦のない江戸の爛熟期に交通インフラが整ってきたとはいえ、現代から考えるととてつもなく時間も手間もお金もかかるのが旅である。誰でも気軽に行けるものではない。何かそれだけの使命がないといけないのだ。
旅の使命とは??
と思う人もいるかもしれない。要はタテマエだ。日本では何しろ周りに気を遣うので、タテマエのつく旅行が多い。研修旅行、慰安旅行、修学旅行、などなどなど。江戸でいえば、それは「信仰と巡礼旅」となる。メッカではないが、誰しもお金と時間に余裕ができたら一生に一度はお伊勢参りの夢を叶えたいもの。そのためには借金も厭わない。
「講」と言われる旅の共同基金もできた(このシステムが楽しそうで羨ましいので私もイスラーム旅でいつかやりたいと思っている)。代表的なのは伊勢神宮に参る伊勢講。
当時の庶民にとっては伊勢までの旅費は相当な負担であった。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みである。「講」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたようである。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになる。旅の時期は、農閑期が利用される。なお、「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であった。
出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われる。また地元においても道中の安全が祈願される。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種、松阪や京都の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産(軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われた)を購入する。無事に帰ると、帰還の祝いが行われる。江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組みによるところが大きいだろう。
ーWikipediaより引用
しかし、ここまで苦労をして旅をしても、本当の巡礼としてのお伊勢参りはほんの名目に過ぎず、本音としては奈良や京都などの近畿圏の温泉湯治、物見遊山などが庶民の真の楽しみであった。その結果、当時の活版印刷などの複写技術の普及も合まって、東海道中膝栗毛や、以前紹介したような「大和名所図会」といった本(江戸時代版「るるぶ」や「まっぷる」)が全国のメディアツールとして大流行するのだ。
<大和名所図会と江戸の観光についてはこちら>
庶民の”観光”はどこから来たのか〜大和名所図会に学ぶ心〜
そうして、安泰した治世のもとに普及して行く商業および娯楽産業としての「旅」であるのだが、同時に人々が心配している事柄もある。そう、現代と同じくテロや病気、強盗や犯罪などの旅に伴うリスクである。そういったものは名所図会には載っていない。
しかし、庶民は旅をするためには山を越え、谷を渡り、諸国をひたすら「歩か」なければならない。自身の健康を損なうこともあるだろう。
そ・こ・で、重宝されたのが旅の知恵を結集した「旅行用心集」である。
旅行用心集は、八隅芦庵(やすみろあん)が書いた江戸時代の旅行指南書である。旅の心得、諸国の温泉、人との付き合いの他にも、旅に遭遇する危険な虫や薬草、冬の旅の注意事項、旅の便利な持ち物など江戸から関西への長旅を安全に過ごすためのノウハウがぎっしり詰まっている貴重な一冊だ。当時は、旅に「保険」という考え方もなかったので、この書籍はたいそう重宝された。
「旅行用心集」は現代に通じる知恵もあったりする。例えば、これは定番だ。
道端の家や畑で作られている梨、柿、柚、蜜柑など果実類は、どんなにみごとに実っていても、いたずらにも手を出してはいけない。また、村の中で五穀はもちろん、庭に干してあるものは間違っても踏んではいけない。知らぬ土地で文句をつけられるようなことがあっては、こちらが正しくても勝ち目がないと思っていたほうが間違いない。
その他にも訪れた場所の人々の習慣や方言をむやみに笑ってはいけない、とか、賭博や酒場の近くに近寄ってはならないとか、女性を伴う旅人に出会った時は通り一遍の挨拶だけをして余計な詮索はしない、とか、旅では目立たない格好をして長い刀や脇差、派手な着物や持ち物は慎むべきだ、など、できる限り災難に遭わないための教訓としては今に通じるものがあって勉強になる。
そう思うと、日本で「旅」が庶民の娯楽産業として定着したのは近世なんだなあと改めて感じる。
しかし、そうやって庶民にせっかくひろまった旅の概念も、文明開化でまたガラッと変わってしまう。
また別の記事にて明治維新以降の日本の旅行産業について書きたいと思うが、明治維新以降の日本の旅産業はもっぱら外国人相手にレートの良い外貨獲得を目的としたインバウンド産業として栄えて行く。(今でこそインバウンドインバウンドと盛り上がっているが、もともとのインバウンド産業のルーツは明治時代に鉄道院が作ったJTBの前身のジャパンツーリストビューロー(頭文字は一緒)。開国直後で、産業資本も国力も不足している日本が海外を相手に稼ぐことができるものは「すでにそこにある素晴らしい資源、観光」であったのだ。
現代の日本は「江戸末期の退廃的な爛熟期」に似ているように思う。
そんな日本が、資源と労働力の不足で明治維新からのインバウンド産業にふたたび熱い視線を送っているということは、また違う意味で、今の日本は大きな変革期を迎えようとしているのかもしれない。