【私とトルコインターン2006 その4】良い文化と悪い文化って何?
わたしが大学生の頃のインターン日記シリーズ、ちょっとシリアスな話題です。
トルコにいると、よくこういうことを
身近に考えます。
以下、当時の日記より引用。
研修中にふと考えた疑問。
ことの起こりはルーマニア人の
一見こわもてのおにーちゃん
であるトレイニーが、
「トルコってほんっまアホな国やわ!!嫌い!」
って私に愚痴ってきたこと。
(こんな関西弁ではありません。
念のため。)
彼はテキスタイルの工場で研修しているそうなのだが、毎日馬みたいに重労働していて、夜寝る暇も十分取れないほどの超過勤務を強いられる割りに残業手当がまったく出ないそうで、怒っている。
だからトルコが嫌いで、自国のルーマニアと比較して見下している。
そして、何かといえば二言目には
「ステゥーピッドカントリー」。
アッラーを絶対神として、
周りの宗教に対し敬意を払わない。
一日に何度もコーランを町に流してうるさい。
他の外国語を覚えようとせず、トレイニーがいる前でも平気でトルコ語のみでしゃべる。
恋人といちゃつくことも、ディスコでさわぐこともダメ、(ってか、実際トルコ人はこれらやりまくってる気がするが・・)
女性は不必要に猛暑の中で真っ黒な布で体を覆い隠している。
(これはもはやトルコではない。。)
戦争の歴史を正当化して、反省しようとしない。
完璧にやるわけじゃないのに、断食の真似事をする。
自分たちの国の正教徒は発達していて、自分たちの過ちを隠したりせず、他人にも宗教を押し付けたりしない。
それなのに、トルコは・・・
ほんまにstupid country!!
愚痴はそこで収まらず、今度は日本のことについても、ハラキリ、ゲイシャについてstupid cultureだと文句を言う。
(それだけしか日本についてしらないのだが)
でも、そういう「郷に入っては郷に従う」っていう異文化への寛容な気持ちを持てないことこそがすでに思考の偏りを生むのではないだろうか。
自分の国と比較して、善し悪しを言って改善を求めるのはそれはそれで結構だが、私はこの半分未開で、半分発達した不思議な土地がキライではない。
いや、むしろ大好きかも。
(宗教の良し悪しは別として)
日本のやトルコを愚かだと批評するのは非常に簡単なことだが、それもその国の歴史なんだって。
今何が大事なのか考えることは
とても重要だが、今まであったことに、難癖つけても仕方がない。
いつ何時でも人が犯す危険性があるものに対して思い遣りをかける心をもてないものは、いずれ自らの思い込みから同じことを繰り返すと思う。
ここトルコでもっとも気になることはクルド人労働党PKKの過激派テロリストについてだ。私の滞在中もブルサやイスタンブールなど有名地で合計7~8回爆発があった。
(幸い、私はいつもタイミングよく免れていた。)
トルコ人のクルド人迫害は、クルド人に対して独立意識を抱かせ、お互いに憎しみを募らせていって止まるところを知らない。
わたしからすれば、ユダヤ人的(彼らは豊かになったのでテロはしなかったが)な気の毒感があるのだが、現地のトルコ人の意識は私が思っている以上にクルド人に対して過酷である。
ある時、あれほどやさしいホストファーザーが真顔で
「クルド人なんていなくなれ!皆燃えてしまえばいいんだ!!」
と吐き捨てたときには寒気がした。
だけど、ニュースを見ると、クルド人のテロで罪がないトルコ人兵士が何人も亡くなっていて、気の毒になる。
トルコ人もクルド人もお互いに憎しみの悪循環に陥り、そもそもの目的を忘れてしまうのではないか。
クルド人は人権を認められて、正当な扱いをされれば問題はないはずだ。
トルコ人はクルド人がいやなら
独立させればいいのに、国土が減る
からと嫌がる。
それならば、せめて暖かく迎えて
あげようよ。
迫害がテロリズムを生み、
テロリズムが迫害を生む。
誤解が誤解を招き、
その誤解がまた新たな誤解を
生み出す。
そのようにお互いが憎しみあっていく文化。
出口・・ってないんですか?
と思うととても悲しい。。。
そこで最初の問題に戻るのである。
この世に一体良い文化と悪い文化はあるのだろうか?
自分サイドで見て物事を切り捨てるのは労力が要らず非常に簡単だが、
それが悪循環を起こしている。
実際トルコにきてみて、
私はだいぶトルコに対する見方が変わった。
いかにメディアが報じている上滑りな情報に踊らされているかを感じ、事前に調べていった情報の不確かさに対しても自己嫌悪になった。
意思疎通をあきらめない。
それが平和につながる。
相手を理解しようとする心の広さ、
視野の広さ、
そして自分を客体視できる力、
これらがお互いを幸せに変えて
いくためには不可欠だと思う。
私の研修先トラブルの問題でも、
私の日本側研修担当と現地研修
担当の間での言い争いは、結局
お互いの背後をよく理解できていなかったことにある。
(それは私の優柔不断さのせいでもあったん
だけれど)
意思疎通をあきらめない。
相手がわからずやだと思っても、
どこかにかならず道はあるはず。
民族と宗教の問題は私の予想以上に
深いものがあり、とてもいっちょ
まえなことを言える人間ではないけれど誰も幸せでないのがつらい。
融和出来るときが来ることを信じて。
そのために、どんなに小さくても
やれることからやろう。