2017-09-02

好奇心のコンフィ〜探究心の隠し味を添えて〜

 

お知り合いになった方から、「好奇心旺盛で行動力や探求力があって良いねえ。物好きやねえ。」とか「なんでそんなに物事を楽しそうに熱中できるの?」とか「変わってるなあ。よくわからんけど、一緒にいたら不思議と面白いことが起きる。」と言われることが結構ある。

あと、最近言われるようになったのが「話していると不思議と旅に行きたくなる」。

これは、これから旅と本と故郷の切り口から人を紡いだり、ワクワクさせるお手伝いがして行きたい中で、とても嬉しかった。

  

どこでもいいので、旅には行って欲しい。行くと自分の中で必ず何かが「変わる」から。 

だけども、何もないのに行けないし、何もないのに興味なんてわかない。

そりゃそうだ。

私自身、好奇心を持つこと自体がエネルギーが必要なことを今痛感している。 

地方の実家に移ってからの生活では1日中家にいて認知症の祖父母と生活していることが多い。そんな中で、私も今のままでは「やる気と好奇心」を起こすのがなかなか難しいことを感じている。

都心にいるときには常に何かを調べて挑戦したり、プロジェクトを始めてみたり、コミュニティを育てたりなど、休日にこれでもかと好奇心・探究心に任せて動き続けていた。

それがこちらに移ってからしばらくの間は、やる気や興味が起きない。

10年前に東京に最初住み始めたときもそうだったのかなあ。

と思い返してみたのだが、その時はそういう訳でもなかったように思う。

地元の劇団入ったり、ボルダリングしたり、旅に行ったり、自己啓発系のセミナーに

行ったり、それなりにすぐに何でもできたし、知り合いもできた気がする。

地元でも、やろうと思えば一人で新しい料理をしたり、プランターを植えたり、語学の勉強をしたり、パン焼いたり、プラ板焼いたり、お宝鑑定したり、プログラミング勉強したり、家の中でもなんぼでもやることはあるはずだし、東京にいたら実際にやっているだろうに、どうも気が乗らない。

考える時間だけがどんどんすぎて行く。

という訳で、「なぜ好奇心旺盛と言われる私が、今新しいことのやる気が起きないのか」

を考えてみた。

 

 

そもそも「好奇心」とはなんだろうか?

ウィキペディアによると、

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好奇心(こうきしん)とは、物事を探求しようとする根源的な心。 自発的な調査・学習や物事の本質を研究するといった知的活動の根源となる感情を言う。 ヒトをはじめ、比較的知能が高い動物でも多くの種にそれがあると思われるような行動が見られる。(以下略)

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 ということで、概念的には「物事の本質を追求するための知的活動の根源となる感情」を指すらしい。もっと言えば、知的活動の根源となる自発的な感情、つまり「意欲」に近しい。

 

私は「好奇心」を育てる意欲は、主に「知識の空白地帯」、「初動の容易さ」、「予想と現実の不整合」、「共有」の四つのバランスとサイクルによってできているように思う。
「知識の空白地帯」というのは、物事に対する自身の「無知の広さ」のこと。

全く知らないことは自分に関係ないと思ってしまうためそもそも関心を持たないし、

逆に自分がほとんど知っていることについては、新たに知りたいという幅が限りなく小さい。

物事に対して自分が知らない空白地帯、これが広すぎも狭すぎもしない状態のものを日頃からたくさん保有していることが、関心を育てる上で非常に役に立つ。
次に「初動の容易さ」。

これは、いかに初動の行動負荷が低いかということ。

低ければ低いほど心理的な負担も小さく、ちょっとしたことから気軽に始められるので、

初動のお膳立てがされていると、それほど大きなエネルギーを使わずとも行動に移しやすい。

それは例えば、自分がやろうとしていることを先にやっている人がいたり、情報源がどこかを

把握していたり、どうすれば実現できるかの手段と時間が担保できていることなどがあげられる。

 

そして、「予想と実体験の不整合」具合。

始めから想定できることが想定通りの結果になっても、別に面白くも何ともない。

ある程度、頭で考える予想と身体による経験の不一致があるからこそ、

始める前は不安でドキドキするし、結果としてその不一致の中身を解明したくなる。

そしてその不一致で感じる「違い」も、大き過ぎず小さ過ぎない方が、より魅力的だ。

例えば、水が怖くて大嫌いな人がシュノーケリングをやって溺れて大量に水を飲んだ、

という経験なら「水=恐ろしい」というイメージが変わらず、以後もそのイメージを変えることは難しい。

しかし、逆にシュノーケリングをやって「水は怖いままだけど、泳ぐ魚が綺麗だった」というマイナスとプラスの不一致の経験があれば、その五感の不一致に対して「何で違うんだろう」「どうしたらうまくいくんだろう」といった自分の身体の経験に興味が湧いてくる。

ゲンロン0の『観光客の哲学』にも「観光客の哲学の真理は情報の誤配」と書いてあったが、 旅は主にこの頭と身体の情報の不一致を経験することにより、脳の感覚の引き出しを増やし、新たな刺激を与えてくれる。
最後に「共有」。

これらの一通りの経験を共有したり、取り組んだことの結果を認めてくれそうな仲間や大事な人が身近にいること。それが新しくて未知の物事に向き合う不安の抑止力となる。

 

これらの条件が綺麗に揃って、かつ各々が良いバランスであった時に好奇心や探究心は生まれやすいのではないかと思う。

二つ目、四つ目の条件が比較的揃いやすい都会の中で好奇心がなかなか生まれにくいのは、一つ目の「知識の空白地帯」で良い糊代がついた素材の絶対数が不足していることと、またそのために三つ目の「予想と結果の不整合」の経験数が不足しており、想定外の経験をした場合の不安の耐性や、乗り越えるエネルギーが足りないのが主な要因ではないか。

だから、好奇心のための意欲を呼び覚ますには、色々な物事を広く浅く見聞きし、自身で経験するサイクルを何周もこなすことが必要だ。1つのことがまた次のきっかけを作り、たくさんあればあるほど総合的にスピードも感度もアウトプットも上がっていく。 

私の場合は、10年という長い時間の中で育まれてきた人間関係や、便利で自然と情報や技術や人が集まる仕組みが成立している都市のインフラに頼っていたために、これまで何も苦労せずにやれてきた二つ目と四つ目の条件がなかなか揃わない。

 

それは、家族と暮らすようになって私一人の時間管理で済むのではなくなったということ、近くにそういったことを切磋琢磨したり相談できる人がまだ少ないということ、地方なので情報も機会も技術も人もこちらから構築していかなければならないこと、またそのインフラの構築方法自体も確立されておらず、スピードがゆっくりであること。

物理的な機動力の問題では、最寄駅まで車20分かかるという問題があること。

こういったことをゼロから取り組み始めているので、一つ目や三つ目の経験がたくさんあっても好奇心の行動にドライブがあまりかからない。それがつい、もどかしくてイライラしてしまう(関西で言う「イラチ」な人間なので)。

生活面でのインフラでは、Amazonとかヨドバシnetとかオンラインバンキングなど、オンラインで済ませられるものはそれなりに学習したし整ってきた。なので、人と知り合ったり会いにいくことをもっとしたいのだけれど、なかなか家のことを考えると好き勝手に外出できない状態でもある。ここは地方ではある程度腰を据えて取り組み、時間をかけなければならないポイントなのかもしれない。
私の「好奇心」のレシピは、これをどうブレイクスルーするかが目下の「隠し味」で研究のしどころなのです。

と、真面目に考えていたらみんなの「好奇心」レシピが気になってきた。あなたの好奇心レシピの「隠し味」は何ですか?

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