今を生き抜く「隙間」を作る旅と、網を広げるための「探求心」。そして、そこから見えるものは。
えらいタイトルだ。
でも、自分の志向を考えると「きっとそうなんだろうなあ」と思う。
固まりかけたら秩序化されそうになったら新しい刺激を求めて動いて、また固まりかけたら動いて。牧草を求めて住む世界を変え続ける遊牧民のように。
そうすると「何かに固定されて思考が不要な汎用的行動になる=秩序化、ルーティン化、コモディティ化する」暇がない。
振り返ってみると、疑い深いのか、探究心が強いのか、小さい頃からずっとまだ見ぬ価値観や世界観を求めて移動してきた。田舎から、都市部、都市部から世界。あの本からこの本、この分野からその分野。あのグループからこのグループ。あの言語からこの言語。
その度に今までの自分に対して頭をぶつけながら、体当たりで環境に合わせて物事の見方や考え方を変えてきた。
どうも私は、新しい混沌とした環境に身を置いて自分が変わっていくのが好きなようだ。
それは自分の狭い世界をなんどもなんども壊して、より広くて新しい次元に強制的に連れて言ってくれるし(様々な視座を学べる)、どんな世界でも変わらない真理を一層強固な確信に変えてくれる。
中でも海外でのインパクトは、やはり大きい。
私にとってはトルコでの生活がそうだ。今までの純日本人からは想像もつかないイスラームに根ざした暮らしと文化。朝5時からお祈りで起き、1日に5度お祈りをし、職場でも家族が遊びにきたらチャイで談笑し、ラマダンの月にはみんなで断食をする。女性はムスリム用のコートを着て、ヒジャブ(頭のスカーフ)をいつもつけている。今でこそトルコではほとんどみられないが、イスラームでは本来は一夫多妻制。トイレは和式の反対向きみたいな便器だし、洋式は紙が流せない。使われる言語はトルコ語。第二外国語は英語よりもドイツ語がメジャー。何もかも全部が違う暮らし。そこでは、一瞬何もかもガラガラっと自分のアイデンティティとなっている世界観が崩壊するような気分を味わう。価値観が180度変わる。しかし、そこで「もう立ち直れない!」と思っていても、気づいたらいつの間にかまた世界と自分の新たなつながりが再構築される。一度経験して、再構築が成功するとそれが面白くなり、なんどもなんどもやって行くうちに世界と自分との接点がたくさん生まれてくる。そうなるともはやそれは範疇外の話ではなく、自分事になってくる。自分事になった瞬間、また新たな興味が湧いてくる。それらを受け付けられるだけの心の隙というか、余白というか、遊び部分をいつも残しておく。
それはつまり、「物事にはいろんな視座がある。そこで、この人はどういう背景や経験があってこの結論にたどり着いているのか」を理解し、与えられた情報を100%信じる前に、常に20%ぐらいは疑問に思って探求する心の隙を残しておく事だ。そうしておくと、よりたくさんの変な情報や異なる見方が受け付けられる体制の頭になる。何せ、全て「隙間」があることが大事。人間も良い意味で「隙」がないと知らない人に話しかけられないし、予想外の出来事が起こる面白いチャンスも逃してしまう。
私が旅が好きなのも、そういった「隙」を最大限使えるのと、想定外のことが起こりやすいことが理由の一つである。知らない場所へ足を踏み入れ、身体も頭もフル回転しながら「この世界とつながりたい!」という刺激の波に乗り続け、そうして次のビッグウェーブの機会を伺っている。
『旅の思想史』という本で、こんな文章がある。
「旅人が自らを運動状態に起き、その運動にとっては外在的である場所の観念を捨てることができる限りに置いて、移動は旅人を吸収して、彼を移動に固有の秩序に置いて浄化し、移動は自己没入的なものとなり、それ自体が喜び、動機と化す。移動によって課された構造に自らを融解させることによって、移動はそれだけで報われる「自己目的的な」体験となり、チクセント・ミハーリィが研究している「フロー(流動)状態」を誘発する。このような状態に関しては、彼の研究対象であるスポーツ・ダンス・ヨット遊び・登山に精をだす多くの人々によって報告された。この用語自体は、登山家が自ら選んだ行動に内在する満足感ー行動が誘発する連続感ーについて記述したものから採られたのであった。「流動する目的は流動し続けることであり、孤峰やユートピアを求めることではなく、流れの中に止まることである。それは上昇運動ではなく、連続的流動なのである。流動状態を持続させるためだけに動くのである。山に登るということ以外に山登りの理由はありえない」。
場所を移動し続ける、自分を変え続ける、そのプロセスそのものが「フロー状態」となる。そして動き続けられる、変わり続けられるの、「動き」「変わり」の原動力は「隙」にある。ガチガチに固定してルーティン化していると、そこに「変わる」「動く」という発想が生まれる余地はないから、良くも悪くも「自分で探求する」心が退化していって「遊び」部分がなく、ちょっとしたことで崩壊してしまう。それは、現代の社会に対しても少なからず言えることだと思う。いろんな世界や経験を過ごしてきている人は多少の困難があっても折れないし、そこから脱却する事を考えることができる。しかし、一つの世界しか持っていなくてそれしか見えていないと、それが崩れた時には自分も運命を共にして崩れるしかない。挫折を知らない人が脆いのも、「うまくいっている自分の世界しか見たことがない」からだと思われる。私は、あまり気持ちのいい話ではないが、小さい頃に「嫌がらせ」や「疎外」にあってたし、会社員になってしばらくした頃に相性が悪い上司のパワハラによって鬱状態になり辛い時期もあった。そして、今現在は認知症の祖父母の介護と実家のことに頭を悩ませている。しかし、そういった事に際して読書や旅の経験のおかげで「こことは違う価値観の世界や時代がある」ということがどこか心の片隅にあったのと、今までの経験のおかげで「この状態が未来永劫ずっと続く訳じゃないし、1つの世界がなくなっても他の世界があって何とでも生きていける」とどこか腹の底で「ゆとり=隙間」が残っていたことが支えになった。そしてそれが結果的に色々なことを乗り越えるためのモチベーションとなってくれた。
だからこそ、適度な「隙間」を持つことは大事だと思うのだが、今の時代は、文明や技術発達によって、いろんな物事における「隙間」や「遊び」が無くなってきている。それは、例えば、「釘をさす」ということわざからも垣間見れる。
「釘をさす」は、古来の木造建築にちなんだことわざである。旧来の木造建築は木材をくり抜いてはめ合わせて組み立てており、釘を使用していなかった。そうしてはめ合わせるときに、少し「ゆとり」を持たせておき、日本の温暖湿潤な気候において、好天で乾燥している時は木材の水分が抜けて収縮し、「隙間」が生まれることで互いの木材にかける負担を軽減する。また、雨が降ると木材が適度に湿気を帯びて太くなり、隙間によるズレが修正される。そういった自然な形で1000年たった今でもその形をとどめている。これが、鎌倉時代になると、その隙間を作らないように「釘をさす」ようになった。しかし、「釘をさす」と釘のサビが木材を傷め、釘を刺した場所から建物全体が徐々に痛むことにもつながった。「隙間」がないと衝撃をまともに受け止めてしまい、折れやすいのだ。
では、日常において積極的に「隙間」を入れていくためにはどうしたらいいのか?
それは、学びと経験によって「視座」を引き上げることだ。それに直結する手っ取り早い方法が「自分で旅する」ことだと思うのだ。
そんな、「今を生き抜くための「隙間」作りのための旅や読書と、それらのサイクルづくりのための「好奇心・探究心」の醸成」について、ノマドなイベントという今までに無いやり方に挑戦して、みんなで語り合って見たいと思います。
【Event】わらしべ旅語り:旅が生み出す「隙間」とは?「旅」とは何かを探る夕べ。
ぜひお越しくださいー!!