大阪渡来フィールドワークの旅
大阪って面白いなあ。
とりつかれて、はや一年。
犬も歩けばトライにあたる場所、「大阪」で働き始めたがために、私の日々は変わってしまった。
きっかけは、、、そう、忘れもしない現実的な問題から。
数ある私のやりたい仕事の一つとして不動産の整理・利活用もあるのだが、その日はたまたま大阪の駒川商店街のとあるシャッター店のことについて考えていた。近年、再開発が著しい天王寺のそばにある貴重な大阪の下町として、何か面白い店の見せ方や使い道はないものか。
そんなふうに考えていた時に、友人が冗談でこう言ったのだ。
「いつも口が溶けるほど言ってる、シルクロード絡みのことで考えたら?」
まだ口は健在なので溶けるほどではないと思うのだが、もしも本当に何かシルクロードに関係あることで出来るのなら面白い。調べてみたらインバウンド対応なども取り組んでいるということらしい。私が出来ることとといえば、ミステリーハントをしながらクロスカルチャーの面白さをみんなに伝えて楽しい時間を作る、ということ。それでいて仕事になるもの。
うーん、、いっそこの場所がクロスカルチャーにゆかりのある国際的な場所だったら喜んでツアーやるのに!!!!
(マニアックだけど)
そういえば遠つ飛鳥(とおつあすか)というのが河内に合ったような気がする。
駒川って、何かそんなクロスカルチャーなシルクロード っぽい要素はないのかな?
早速調べてみた。
するとこれがなんと、予想以上にビンゴだったのです!!!
目次
大阪の地名は音から辿る
大阪の豊かな渡来の歴史をしるためには、まず音が意味をするものを知ることから始まる。
この本がおもしろすぎる。
大阪は古代朝鮮や大陸から渡ってきた人たちの言葉が地名として残っていることが多く、文字が出来るようになってから漢字を後からあてているので、一見して連想できるものが少ない。ただし、耳から聞こえる音に慣れてくると、「ああ、これも渡来の地名なんだな」ということがある程度わかるようになってくる。
それにしてもこの本は本当に良くできている。価値があるので是非大阪に興味のある人は全員読んで欲しい!!!
「駒川」が意味するものとは
では早速いろいろ調べてみよう。まず、駒川中野、駒川商店街の「こまがわ」とはなんだろうか。
駒川(こまがわ)は、大和川付替反対陳情書に引用された「大和川開鑿地方図」によれば、(中略)、古くは高麗川(巨摩川)と呼ばれていたことから、沿岸に百済や新羅からの渡来人が住み着いたことに由来すると言われています。
なるほど。高麗からきている「こま」なのかと合点がいく。
さらに。現在の人工水源の近くに、鷹合(たかあい)神社があり、この神社では百済系渡来人の酒君に依羅屯倉阿弭子(ヨサミノミヤケアビコ)が献上した鷹の飼育を命じた伝承があることから、沿岸地域に「鷹合わせ=鷹狩」が得意な百済系渡来人が定着していたことが想定できる。
また、架ける橋の名前も「百済大橋」「酒君塚橋」「鷹匠橋」「鷹合橋」があり、この伝承に因んだものと考えられる。
ここで出てくる「鷹合」という地名は、「日本書紀」仁徳天皇四三年秋九月条に「依網屯倉阿弭古(よさみのみやけあびこ)が網を張っていると、見たこともない鳥がかかったので、天皇に献上した。天皇は酒君を呼んで尋ねると、これは百済に多い鷹という鳥で、百済では鷹で小鳥を捕らえる遊びが流行していますと答えた。ならば、お前が飼って慣らせと命じられ、酒君は訓練して再び帝に差出す。帝は大いに喜び百舌野で狩猟され、多くの雉を捕らえる。これはすばらしい鳥だ、もっと増やそうと鷹甘邑(たかあいむら)と呼んだ」との内容がある。鷹狩は中東から中央アジアを通じてユーラシアで人気の遊びのため、日本にも伝わってきたのだろう。
さらにさらに、東住吉にいたら外せない公園、長居公園についても話したいことがある。
長居公園通りは、かつては古代に磯歯津道(しはつみち)と呼ばれており、倭の五王の時代(古墳時代)にあった住吉津(すみのえのつ)から喜連に通じる道で新羅など外国からの使節が飛鳥に向かう道であった。「須牟地(すむち、いまの住道)」には 磯歯津道の道の神であり使節の休息所といった意味がある。外国の使節が来ると各国から集めた稲で御神酒を醸し使節を歓待し、その接待役が中臣氏であったことからの、中臣須牟地神社(なかとみのすむちじんじゃ)が矢田に祀られている。
古代から鎌倉時代まで天皇即位後の大嘗祭 (だいじょうさい) の翌年、難波津で八十島祭(やそしままつり)という儀式が行われ
ており、中臣須牟地神社はそれにも関わった由緒ある神社と伝わっているそうだ。※ちなみに八十島の「八」は「いっぱい」という意味である。一説にはユダヤ系東方キリスト教からきた「ヤハウェ」のヤーから来ているかもしれないとのこと。いろいろ宗教がミックスしていくので全くもって面白い。
山阪(田辺)神社と「田辺」
田辺は「北田辺」「南田辺」「西田辺」などといろいろ馴染みがある。そんな田辺はもともと渡来系の「田辺氏」からきていたらしい。
田辺氏は、元来、西国から移動した渡来系氏族で、現在の柏原市に拠点を持ち大いに栄えた一族であり、その分家がこの地に移住して、自らの祖先神を神社に祀ったとされる。創建の時期は不明だが、主祭神は天穂日命(アマノホヒノミコト)で、※野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)も祀っている。田辺氏と同系の土師氏の祖先神が野見宿禰命で、天穂日尊の子孫とされていることに因んでいるのかもしれない。日本三代実録の「清和帝貞観(ジョウガン)4 年(862 年)8 月 11 日条田辺西神、田辺東神に従五位を授けた」ことが記録されていおり、田辺の西神は山阪神社を、東神は中井神社を示すものとされている。
※野見宿禰命
日本書紀の垂仁天皇 7 年秋 7 月条に書かれている人で、当麻蹶速(タイマノケハヤ)が相手の生死を問わず荒っぽい相撲振りを誇示したので、天皇が全国から対向者を募り、出雲から野見宿弥が召喚されて対戦し、蹶速を蹴り殺してしまう。 野見宿弥は褒美として当麻蹶の土地を戴き、当麻に留まる。 御陵建設等の技術集団である土師氏は、彼を始祖とし、菅原道真も土師氏の末裔だと言われている。ちなみに、奈良県当麻寺駅のそばには「けはや座」があり、日本最古の相撲としての展示がされている。
他にも渡来にちなんだ地名
田辺や、田辺の隣の平野区も含め付近一帯は、渡来系に因む地名が残っており、平野杭(く)全(また)荘を開発した坂上(さかのうえ)氏は百済系で、現生野区から当地一帯を平安時代は百済郡と呼び、大正14年(1925)まで百済村もあった。
JR東部市場前駅は百済貨物ターミナル駅と呼ばれ、今川には百済大橋、百済南小学校がある。
地下鉄駅名の喜連瓜破(きれうりわり)は、旧喜連村と瓜破村を合わせた駅名で、高句(こうく)麗(り)の「高」を略し喜連の字を当てた地名。山阪神社は飛鳥時代に田辺氏が信仰した氏神、田辺西神と田辺東神を、西神として山阪神社を、東神を針中野の中井神社を創建しました。山阪神社は相撲の神様で、相撲の祖といわれる野見宿禰(のみのすくね)を祭っていて、その関係で境内には力石が六つ並んでいる。右端の新しい力石には「第五十八代横綱 千代の富士貢」と刻まれている。
田辺氏の本拠は河内国安宿(あすかべ)郡、現在の柏原市田辺付近で間違いないようだが、摂津国住吉郡、現在の大阪市東住吉区田辺付近にも居住していた。北田辺には田辺廃寺等の遺跡もみられる。藤原氏の繁栄の基礎を築いた藤原不比等を育て、国の基本的な法として701年に制定された大宝律令の編纂にかかわるなど、一族は中央で大いに活躍した。
田辺氏には、「史(ふひと)」という姓(かばね・古代の称号)が与えられている。「史」はフミヒト(書人)から転じたもので、大和朝廷の政治組織の中で代々文筆・記録を職務とした家柄の人々をさす呼称が制度として定着し、田辺氏がその職にあたっていたことを示している。渡来系である田辺氏は、漢文の解読や中国・朝鮮半島の法令や記録などの知識をいかして文章の作成、国の政治・経済・文化などの紹介や解説をしていたのだろう。
大和川の今池遺跡
宝永元年(1704 年)の大和川の付替え工事において、柏原~堺の 14.5km を僅か 8 ケ月の短期間で完成することが出来たのは、平地に堤を構築し、開削したのは浅香山と瓜破地域のみであったからとされている。その理由から、大和川の敷設場所に当った今池地区から旧石器時代から近世に至る生活の痕跡を残している遺跡が大和川の左岸付近から発掘されている。
この遺跡から、難波宮と大津道を結ぶ一直線の古代道路(難波大道)が敷設されていたことが確認された。
朱雀門跡が大阪市立聾学校校庭内から出土し、これを基点として、地図上をまっすぐ南下すると、天王寺の教育大学東側(この辺りに「大道」の地名が残る)と、田辺法楽寺の西部や山阪神社の東部を経て、今池の出土場所までは、完全な一直線で結ぶことができるのだ。寺田町あたりの地名なのだが、よく通っていたところなので馴染み深い驚きだ。
桑津港のふしぎ
桑の木が多く、津(港)があったことから地域の名前が「桑津」と言われるようになったと伝えられている。現在では、駒川や今川沿いに沢山あったといわれる桑の木もほとんどない。地元の学校校庭東隅に、とても大きな桑の木が一本あるそうだ。校舎増改築の際には、設計に配慮してこの桑の木を存続させた。桑の葉は、カイコたちの大切な命。『日本書記』によると、応神天皇(四世紀)の頃、日向の国(今の宮崎県)からこの地に来た髪長媛(かみながひめ)は、美女の誉れ高く、のちに仁徳天皇の妃になったそうだ。また、桑津天神社の伝承では桑の木を植えて、蚕を飼い、生糸をとって織物を作ったとされ、八幡宮に奉納されている。養蚕や機織を伝えたのも渡来の人々なので、このあたりも気になる。
そう言った足跡を全部辿ろうというツアーを今やろうとしている。