2016-06-07

旅を消費するツアー

旅は楽しい。

しかし、こうして思うのは、大型ツアーは利便性や効率性が高いのだが、なかなか現地の営みの本質には触れられず、結局安全な檻の中で旅を「消費」してるんだなということ。

少数民族の家に大型バスで乗り入れて、現地のイスラムの人々の写真をパシャパシャ許可無く撮って、その場の一時的な興奮とともに、現地のご馳走を食傷気味に残して帰る。

お金で顔の横面はたく、とまでは言わなくてもフェアじゃない。
というか圧倒的な立場の差に違和感が残るのだ。
そして管理上厄介ごとに極力巻き込まれないようにバスという名の安全ゲージから出られず、厚いガラス越しにしか彼らの生活に触れられない。

郷に入っては郷に従うというが、誰かの故郷を知りたいなら、こちらが相手の立ち位置に合わせて尊重しなくては、向こうからも金蔓の観光客ではなく一人の人間や友人として認められることは難しい。だから時間が許せば、多少不便でも個人旅が必要だとわたしは感じるのだ。

国こそ違えど、昔から列強がこのアジアの土地を分割しては支配し、いま現在でも利権や国益から双方の政治関係に好都合な独裁者が据えられ、民を搾取している。今の中国政府は石油精製や観光資源がある限りこの地を手放すことは無いだろう。

しかし、彼らは誰にも捉われない遊牧民、騎馬民気質が故、生活は支配されても心はいつも自由である。刹那的な支配という概念を超えて、もっと長い時間軸で客観的に世界を見ている。

●●スタンな人々に、政治的な国境線は無意味だ。

国境と民族がイコールであると思いがちな私達日本人とは「民族」の概念がそもそも違うのだ。
民族が混合し、異民族を受け入れていくことで他人同士の自国の中で生き抜き、民族を守っていく。

ホータンのマリクワト古城遺跡入り口にて

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