なぜ神武天皇は大和に遷都したのか〜ひいおじいちゃんの同人誌に見る古代の謎〜
実家を整理していたところ、またまた書物たちが出てきた。
まずは、東海道中膝栗毛。前回、大和名所図会の記事を記載した時に、ちょうど江戸時代後期の寛政年間に日本で観光ガイドブックが流行りだす草分け的存在な書物として紹介していたが、うちからも実際に出てきた。(ので、調べていた者としては嬉しい)
上巻しか見つからなかったけど、探せばどこかに下巻があるのかもしれない。
しかし、今日の話したいことはそんな誰もが知っている既成本の話ではない。実家を整理している時、もっと昔のことについて書いた本が出てきた。
表題を見れば、『神武天皇聖蹟史譚 壹』とある。
中身はもちろん自筆。
・・・・・・同人誌!?
どうやら、私の曽祖父、曽曽祖父は研究家肌らしく、いろんなことを調査したり研究したものを古書として残していたようだ。和歌や俳句、連歌らしきものなどもいっぱい出てきている。
読みたい!!!!!知りたい!!!!繋げたい!!!!
と、私の調べたい欲がムクムクしてきたのだが、あいにく、全て崩し文字で読めない。。。
そのほかの近辺の旧所名跡においても、書物はありつつも詳しくは訳されていないので読めない。。。
というわけで、詳細を知るにはくずし字を学ばねばなるまい。
調べて見ると、くずし字学習支援アプリKuLAというものがあり、これが無料ながら結構面白い。サブ学習としては良いのではと思われる。
さて、一旦ひいおじいちゃんの書いたくずし字パートは後においといて、一般的に調査できるところから調べてみる。
神武天皇といえば歴史でも名高いが、古事記や日本書紀では九州の日向から奈良の大和へ東征して政治基盤を築くまでの過程が取り上げられている初代天皇と言われる人物で、歴史上で実在しているとも伝説で架空の存在とも言われている。
古文や歴史が苦手だけど、神武天皇の人物とエピソードをざっくり知りたい方には、ラノベ古事記で神武天皇がざっくり説明されています。
その神武天皇の東征ルート上に奈良県宇陀市の菟田野・宇賀志地方があって、さらには古事記エピソードに出てくる重要拠点でもあったということで、それらの残存している言い伝えや旧所、地名などから現実的な関係性や、神話の内容を踏まえて、総合的に調べ始めるに至ったのである。もう完全にミステリーハンターの血がざわざわ騒いでます。
が!
調べて見ると、これがまあ色んなことにつながるつながる。
どこから話して良いのか悩むので、私の疑問ベースで一つずつ辿っていきたいと思う。
皆様においては、これから記載することはあくまでも古事記の前知識が少ない人間が自分の関心のままに調べた結果、発見したり推察していることなので、諸説や別の解釈があったり、色々調査途中のために一部の内容に間違いがあるかもしれないことをご了承いただきたい。
では、探求していきたい。
まず、この場所でなぜ「神武天皇」の話が多いのかについては、前述の通り神武天皇が九州中部の日向から東に素敵な土地があると導かれて瀬戸内海を渡り、大阪から和歌山に入り、奈良に北上して、最終的に奈良県中央部の橿原市にある橿原神宮に遷都した、という話が残っていることが関係しているようだ。
次に、なぜこの奈良県宇陀市の菟田野・宇賀志地方の場所にゆかりがあるのか?という疑問が湧く。
宇陀記紀・万葉によると、
神武天皇は、即位前は「神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)」(『古事記』)、「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)」(『日本書紀』)とあります。天皇に即位する前後の出来事の舞台のひとつが宇陀となっています。
即位前での出来事でもここでは、便宜上、「神武天皇」と呼ぶこととします。
日向(現在の宮崎県)から大和に攻め込む際、瀬戸内海を通過し、大阪の難波津へ軍船を進めました。難波津へ軍船を進めた神武天皇らは、生駒山を越えて大和に攻め込みましたが、長髄彦の反撃を受けました。形勢が不利とみた神武天皇は、原因を自分達が太陽のある東へ向いて攻撃しているためと考え、一旦、退却することとなりました。退却した神武天皇らは、南下し、紀伊半島を迂回して、熊野に上陸するという作戦に変更しました。この後、神武天皇らは、天照大神(『古事記』では高木大神)によって派遣された八咫烏の導きによって、道に迷うことなく、吉野を経て宇陀へと至ります。吉野川の河尻(五條市)に達した後、阿陀(五條市)、吉野、国栖(くず、吉野町)を経て、小(おむら、東吉野村)から鷲家川をさかのぼり佐倉峠を越え、宇陀へと入りました。
『古事記』では、「踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき」、『日本書紀』では、「遂に菟田下県に達る。因りて其の至りましし処を号けて、菟田の穿邑と曰う。」とあり、まず、菟田下県(うだのしもつあがた)の穿邑(うかちむら)というところに着いたことがわかります。
菟田下県は、伊那佐山(榛原)と西山岳(大宇陀)とを結ぶ東西ラインより南側、現在の菟田野と大宇陀・榛原の南半分と考えられています。また、現在の地名の「宇賀(うか)志(し)」は、穿邑の「穿(うかち)」に由来しています。
『古事記』では、神武天皇は、八咫烏をエウカシ・オトウカシの所へ派遣して、服従するように伝えたところ、オトウカシは、この命令にすぐに従ったとあります。一方、エウカシは鳴(なり)鏑(かぶら)という矢を撃って八咫烏を追い返し、反撃の軍を編成しようとしましたが、人数が集まらず、神武天皇に従うと偽りました。『日本書紀』では、オトウカシは、神武天皇の命令にすぐに従いましたが、エウカシは従わなかったとあります。
神武天皇に反抗的なエウカシは、大殿という大きな建物を建てて、その中に押機(おし)という罠をつくりました。ここに神武天皇を誘き寄せて討つ計画ですが、この計画は、すでに神武天皇の耳に入っていました。
神武天皇に仕える道臣命(みちのおみのみこと)、大久米命(おおくめのみこと)は、エウカシを呼び出し、「お前が造ったこの大殿に先に入って、神武天皇にお仕えするという証拠を示せ。」などと言って、大刀や弓などの武器で脅してエウカシを大殿の中へと押し入れました。エウカシが大殿へ入ったとたん、押機という罠が天井から落ちてきて、彼は押しつぶされて亡くなってしまいました。自分で作った罠に自分自身が押しつぶされるという不幸な出来事となってしまったのです。
まだ、エウカシの不幸は続きます。あまり気持ちの良い話ではありませんが、彼の遺体は引きずり出され、切り刻まれてしまいました。彼の血は流れ、周辺を赤く染めてしまい、血で赤くなったところが「菟田の血原」と呼ばれるようになったと言われています。「大殿」の下には、宇賀志川が流れており、このあたりが「菟田の血原」だったと考えられています。血の赤は、水銀が関係しているともいわれています。この宇賀志川には、血原橋が架かり、その横には宇迦斯神(うかしのかみ)を祭神とする宇賀(うが)神社が鎮座しています。
この後にもまだまだ話は続くし、また地元で神武天皇にまつわるエピソードはこれだけではない。だが一旦はここまでの流れを前提として覚えておいて欲しい。
この文章で、私が気になったのは「水銀」のくだりである。
日向を思い出すと、この辺りで水銀の精錬所があった。そして、瀬戸内海から紀伊半島を通じて大和東征での水銀のエピソードを踏まえると、古代と大和と大陸交易と水銀には重要な歴史が隠されているのではないかと思えてくる。
まず菟田野地方に水銀鉱山の跡地がないか、WEBの申し子らしく「菟田野・水銀」で検索。すると、「大和水銀鉱山」という名称でウィキペディアが引っかかった。そこには、
大和水銀鉱山(やまとすいぎんこうざん)は、奈良県宇陀郡菟田野町(現・宇陀市菟田野)にあった水銀鉱山。
おお、やはり水銀鉱山があった!さらに続きを読むと、
大和水銀鉱山
中央構造線以北、西南日本内帯。室生火山群の南東に位置している。室生火山群の火山岩が変質した白土の節理に層状に自然水銀や水銀の原料ともなる辰砂(水銀朱)が含まれ、その鉱床が宇陀山地(宇陀市南部)にも達しており、露頭している場所を中心に古来から採掘が行われていた。水銀や辰砂(鮮血色をしている)は古代においては特性や外見から不死の薬として珍重された(毒であるが。詳しくは水銀中毒を参照)。水銀単体としてはめっきを行うために必要であり、辰砂はその色から古墳の内壁や石棺の彩色、壁画に使用された。
また、『万葉集』には宇陀の辰砂を詠んだものがある。
「大和の 宇陀の真赤土(まはに)の さ丹つかば そこもか人の わをことなさむ」
内容は「宇陀の真赤土で紅化粧をすれば、世間の人は私をなんと噂するでしょうか。それであの人が私を振り向いてくれれば」というもの。真赤土や丹は辰砂のことであり、当時の貴族らの化粧品として使われていたことを伺わせる。
次に水銀の原料である赤い辰砂(しんしゃ)についてもWikipediaで調べて見る。
辰砂
不透明な赤褐色の塊状、あるいは透明感のある深紅色の菱面体結晶として産出する。『周禮』天官冢宰の鄭注に「五毒 五藥之有毒者」のひとつにあげられるなど、中国において古くから知られ、錬丹術などでの水銀の精製の他に、古より赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されている。『史記』巻128貨殖列伝に「而巴寡婦清 其先得丹穴 而擅其利數世」、巴の寡婦清、その先んじて丹を得るも、しかしてその利を擅(ほしいまま)にすること数世と、辰砂の発掘地を見つけた人間が巨利を得た記述がある。
中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。日本では弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られた。大分県、熊本県、奈良県、徳島県、などが主な産地である。
これらの古代における「辰砂(水銀)」の情報を受けて、以下のことが読み取れる。
・中国では「辰砂(水銀)」は漢方薬や不老長寿の薬として珍重されて高額で取引されていた。
・辰砂は古墳の内壁や石棺の彩色、壁画、そして上記にはないが鳥居などの朱色の塗装にも使用されていた。(朱色=vermilionのこと)
・辰砂は金メッキに使われていた(東大寺の大仏の金メッキにも、水銀を使用していたと言われている)
・辰砂は化粧品として使用されていたこと。(調べたところ、白粉で使用されていたらしい。詳しいことを知りたい方はこちら)
・魏志倭人伝では辰砂のあるところに邪馬台国があり、と書かれている。
・辰砂が中央構造線以北で西南日本内帯に存在し、主に大分県・熊本県・徳島県・奈良県で採取されていたことを鑑みて産地を線で繋ぐと、神武天皇の瀬戸内海経由での日向から大和への東征ルートと重なっている。
ちなみに話は逸れるが、東大寺の盧舎那仏のメッキについて裏付けを調べたところ、以下のような記事があったので付け加えておく。
東大寺の大仏の金メッキは、アマルガムを加熱すると水銀だけが気化するという性質を利用しました。「東大寺大仏記」によれば、水銀5万8620両(約50トン)、金1万446両(約9トン)を用いたとあります。膨大な量の水銀が蒸気になって奈良盆地を覆ったかもしれません。日本化学会編「化学防災指針」によると水銀蒸気の吸入は気管支炎や肺炎を引き起こし、腎細尿管障害、むくみ、場合によって尿毒症も発生し、全身のだるさ、手のふるえ、運動失調などをひき起こします。環境科学が専門の白須賀公平氏は、そのときの水銀蒸気で平城京の人々は水銀中毒になり、平城京は遷都せざるを得なかったのではないかと述べています(日本経済新聞2004年5月7日〈文化欄〉)。
あと、ここには記載がないがヨーロッパや中東は水銀やヒ素をミイラ作りに使用していたようだ。映画「ザ・マミー呪われた王女」でも、軍人のニックは地下空洞に水銀の海に封印されていた巨大な石棺を発見する、というくだりがある。ということは、防腐剤としての効果もあるようだ。そこから調べてみたところ、中国と日本を結ぶ船の防腐塗料としても用いられていたことがわかった。辰砂は、なんと色々なことに使える素材なことか!重用された理由も頷ける。
さて、ここからさらにそれぞれのパーツを組み合わせていくと、
・神武天皇の遠征の目的及び軍資金においては、当初から高価な「辰砂」産地の制圧を目的としていた。
・中央構造線の北側には辰砂が豊富に算出された。
・そこで、神武天皇は辰砂の産出量を誇る近畿に東征した。
・大和朝廷と古墳文化では大陸からの渡来人が文化交易に活躍するが、海から渡るのに不自然な内陸の大和を選んだのは、中国及び渡来人の主な目的は高価な「辰砂」の輸入が目的の一つであったため。
辰砂採掘のためには、多くの労働力が必要となる。そのために、作業用に青銅や鉄を伝えたり、大量の食料を安定的に下支えする水稲や陶器などの文化がもたらされたのではないか。あるいは、水稲に必要な粘土質の土の確保は辰砂発掘・水銀精製と何か関係があるのではないか。さらにいうと、大量に作られた古墳というのは、水田工事と辰砂鉱山採掘の結果に出てきた廃棄物?の大量の土を、それらを牛耳る富と権力の象徴として再利用して作らせたものなのではないか。(この仮説の調査は、キャパの関係上、一旦ここで終了)
話はぐるっと変わるが、大和には水分神社(みくまりじんじゃ)という、水の神様を祀った神社が四方にある。崇神(すじん)天皇(倭の五王の「武」と考えられている)の時代に作られたと言われ、大和国四所水分神社と称されている。4社とは、宇太水分神社(宇陀市菟田野[うたの])、葛城水分神社(御所市関屋)、吉野水分神社(吉野町吉野山)、都祁(つげ)水分神社(奈良市の都祁地域)だ。それぞれ奈良盆地を東西南北で囲んでおり、水の神「天之水分(あめのみくまりの)神」をお祭りしている。
菟田野に位置する宇太水分神社は、奈良盆地の東に位置する。4社のうち中社と称されており、本殿の3棟は国宝である。また、10月の第3日曜日には、醍醐天皇の時代から始まった由緒ある「お渡り(秋祭り)」が行われる。「御渡り」は五穀豊穣、水配りに感謝するお祭りで、惣社水分神社(上芳野)から出発する鳳輦神輿を中心に、芳野川に沿って宇太水分神社まで往復12kmを練り歩く。この日は、惣社水分神社の女神(速秋津姫神)と宇太水分神社の男神(速秋津比古神)が年に1度だけ会える日といわれており、女神は鳳輦神輿に乗って渡る。昔、芳野川上流の入谷には水銀鉱があり、水銀は大変貴重なもので、男神は水銀で化粧品をつくり女神に贈ったという伝説が残っている。
ここだ。
水分神社は水の乏しい奈良盆地に対して、豊富な山林を流れる吉野川などの美しい川を生活と水田にうまく用いて、治水を守るために作られているものの、もう一つの意味合いとしては、「水分」は水銀を司るお社としての役割もあったのではないかと考えられる。さらに、水は辰砂の精錬の「コンデンサー(冷却装置)」として用いられていたのではないかとも考えて見る。
こういうことを書くとなんだかだんだん怒られそうな気分になってきたのだが、あくまでも勝手な一個人による推測と考えてもらって構わない。
鉱山自体は随分昔に閉じているし、平安時代には既に人口で水銀が作ることが可能になったため、産業としても早々に収縮している。私もわざわざ調べなければ気づかなかったくらいだ。ただし、歴史を地政学的に考える上で水銀の役割は神武天皇そのものと同じほど重要な意味があったのではないかということだ。現に、宇太水分神社の男神、女神のお祭りにおいても、水銀の白粉を貴重なものとして与えているらしいというところにも、歴史産業との関連性があるような気がするのだ。
ちなみに、東吉野村や川上村などの奈良県南部に「丹生(にう)」という地名が多いが、丹生とは、辰砂のことを指す“丹”の生産やその産地(全国各地にある)を指し、またこの生産に携わる者たちをも丹生と呼んでいたと考えられている。だが、吉野においては丹生氏と呼ばれる一族はいない。丹生川上神社という神社が東吉野村にあるが、こちらも「水の神様」とされており、辰砂の話は出てこない。
ここから考えられることとしては、当初は金属神(水銀)として祀られていたが、前述の通り平安時代には人造朱の製造法が普及していたそうなので、水田や耕作が一般的になって、後に改めて水の神様として創り直されたのかもしれない。
と思っていると、ふと思い出したのが和歌山県の高野山の近くにある丹生都比売神社である。丹生都比売神社のHP内の由緒によると、
紀ノ川より紀伊山地に入り標高四五〇メートルの盆地天野に当社が創建されたのは古く、今から千七百年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞 にうだいみょうじんのりと 』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命 わかひるめのみこと とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。〜(中略)〜ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝 ぎしわじんでん』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社であります。
ということは、やはり中央構造線の北側に多々ある丹生神社の総本山として、紀伊山地に丹の女神を祀る神社があり、またそれは丹を牛耳る一族の氏神ともされていたということだ。ちなみに、神武天皇が東征したおりは、船で浪花津に上陸することができず、熊野に上陸してそこから北上して、橿原宮に入って即位したといわれているので、その経路にあったとみられる。
つまり、まわりまわってきたが、大和の土地は神武天皇が水銀の産地を追って東征してきたものの、そこを中心に文化や農耕が栄えたこともあり、その後に治水の神様とされていった神社があるかもしれないということだ。
ちょっと調べるつもりが、様々な事象が絡み合っていて容易に紐解けるものではない。さすが古代の都。神武天皇においては大手製薬会社が奈良県で立ち上がるルーツとなった薬草狩りなどのエピソードもあるが、こちらはまたの機会に回そう。
気になるのは、ひいおじいちゃんの「神武天皇」さんについての同人誌には何が書かれていたかということ。
そこから、また何かあらたなミステリーが生まれるかもしれない。