【BOOK】論より証拠、現の証拠。過ごしてわかる大和時間。
介護で家に張り付いていたせいで少し太った。
相対的に母が私よりも早起きなので、マロ(犬)の散歩は母親に負けていっていなかったのだが、これでは「チチェローネ(案内人)としていかん!」と思って身体を絞ることにした。
ただ朝がどうしても母より先に起きられないので、親に「お願いだから、6時までに散歩に行かなかったら散歩に行くことにして」と伝え、デフォルトで4時起床の5時読書、6時前に散歩に行くというのをルール化することにした。
さらに、念には念を入れて近所の大好きなおばちゃんと一緒に歩くという前提で「必ず起きなければならない」という状況と習慣化をすることにした。
それから数ヶ月で、割とこの生活スタイルだと身体に良いということがわかった。
先日久しぶりに大阪に出てきた時に、友人に大阪は人が多すぎるという話と最近の四時起き生活の話をしたら「奈良の田舎から出てきてたら都会の大阪は人も多く感じるだろうし、朝四時なんて田舎の時間だねー」と言われて、なんだかムッとした。
しかし、別に場所に対する事実を述べられただけだし、仮に個人に対する「田舎者」ニュアンスの意味であったとしても、言ってみれば都市自体がほとんどは田舎者余所者の寄せ集めなんだから、別に気にすることもない。普段なら軽く流しているようなことに、生真面目に受け止めてムッとしてしまった自分に逆にびっくりした。ここ数ヶ月で、別件だが同じように受け止めすぎて心が疲れることが他にもあった。どうやら、生き方が模索状態だったり、潜在的な悩みや不安があると、無意識に他人のちょっとした言葉や刺激に心が引っかかりやすくなってしまうようだ。今まで迷うことが少なかった分、自分が受け止める時も、自分が人に話をする時もいろんな意味で気をつけねばならないと改めて思う。取り柄が「イケイケどんどん!」な好奇心旺盛な前向きポジティブで、その雰囲気を崩さずに全力で走ってきた性格であればあるほど、知らない間に振り回したりひき逃げしてきた周りの人の想いや感情があったのかもしれない。そして自分自身にも、立ち止まって弱みを見せたり突かれると自分のアイデンティティが崩れてしまうような潜在的な恐怖心があった。だから、自分自身が惑わないように傷つかないように、わざと鈍感に「脇目を振らない」ように突っ走っていたんだと思う。だからロジックとしての正論と強さを提示して「やればいいじゃん!やれるよ!!」と言われても、受け止める側としてはパワハラにしか思えないことがきっとあるんだろう。
この半年間は「前方注意。減速徐行。」と大きく書かれた先の見えない車線を走っているので、フルスピードで走れないことがストレスになってなってなってなってアイドリングばかり続けている状態なので、車体(心身)への負担が大きい。だけど、アイドリングして止まっていることで初めて見える世界観があるように思う。スピードが出れば出るほど、周りの景色が見えなくなるでしょう?そして、そのスピードと車線の違いを知ることが、実は地域と都市の人々の動線をつないでいく上でとても重要なことなのではないかと思う。資本主義経済とテクノロジーの進歩によって、飽和状態の生活の中で成長とスピードアップを求められ続ける私たちにとって、個々人が一時的に車線を切り替え、立ち止まるという選択肢や高速道路の出口があっても良いように思う。入口に入りたくなる時にはまた戻ればいいし。そんなことを考えながら、自身も今の立ち止まっている状態で多感になって、自分の嫌な部分に否応無く向き合ったり、傷ついたりしながら適切なスピードで走れるように補強していっている過程なんだろうなと感じる。地域での景色を受け止められるほどゆっくりのスピードだけど、前に向かっては今まで都市で培ってきた通りアグレッシブに前に前に急いで進む、ハイブリッドな感じへの進化。そのプロセスを経験していることを本能の底辺でなんとなく感じ取っているから、折れそうに見えて折れないんだというお気楽さ、というか希望があるんだと思う。
また、「田舎時間」という言葉が心に残った理由はもう一つある。
そう、確かに奈良に戻ってから、時間の流れや生活、物事を進め方において特有のものがあると感じている。それを都市でも地域でも体験できているのは、すごく貴重だし、それぞれ目指す事もやり方も異なる。なので、旅で場所を移動するときは毎回違和感をビシビシ感じる。今の私は間違いなく奈良中南部の暮らしの時間、「大和時間」で生きているし、大和時間での自己実現のやり方を学ぶ過程にある。そう考えると、確かに大阪時間、東京時間とは全く違う。
例えば、真夏の昼に外で仕事をするのは非効率であるからどうしても過ごしやすい朝になるし、お店が閉まったり、家族が寝静まるのが早ければ自分の夜も早くなる。逆に夜でも風を通すために戸を開けたり、大きなキラキラ輝く星空を眺めながら夜の匂いと一緒に犬の散歩をする。
こちらにきて、草花に興味を持った。いや、草花だけじゃなくて木や動物や鳥、爬虫類や虫に対しても。空を見て天気の移り変わりを読むこともそうだし、風や土の匂いもそうだし、空気そのものの五感に与える刺激も違う。音も静寂はなく、必ず虫の音やカエルの鳴き声、獣の声や木々のざわめき、家の中に潜む生き物達の音が混じり合っていやおうなしに入ってくる。夜は夜で、空を見ることが増えたので「星読み(星座)」に興味を持つ。
それだけじゃない。さらに何かのふとした瞬間に、それらの自然のざわめきや様子から、ふとご先祖様や亡くなった身近な人の存在を感じることがある。それは霊感というよそよそしさや不快感ではなく、もっと身近な、「おまえ、元気にしてるか?困ったことがあったらなんとかしてやるからな」といったような、動植物の姿を借りてあの世から様子を見に会いにきてくれたような感覚。どうやら、生と死、昔と今、自然と人間が混じり合って溶け合っている場所が奈良であるので、人によっても肌や心への感じ方が異なるようだ。
ゲンノショウコは、野生化した薬草なのだが、写真の通り可憐なピンクの花が咲き(白い花の時もある)、五臓六腑に効く万能な煎じ薬を私たちに与えてくれる。怪しんだ人に煎じて飲ませたところ、てきめんに効いたので、「現の証拠」と呼ばれるようになったそうだ。昔の薬草の名前は本当にウィットに富んでいる。
最近は、月見草(待宵草)、赤花夕化粧などがちらほら見られるが、野草とひとくくりにされてしまうのは勿体無いほど可愛らしい花々が咲き誇っている。それらを散歩道で見つけるのが、私の早朝の楽しみになってきた。先日、ルチャ・リブロでお借りした柳さんの雑草ノオトを読んで、ますます愛らしくなったので、今度写生しようかな。ゆっくり急ぐスピードだと、クリエイティブで手間暇をかけるゆとりが生まれてくるというオマケもあるようだ。