現代社会の無意識なテクノロジー&スピード依存からのデトックスとは
とある英語の記事の見出しに、
「人間社会はテクノロジーにハイジャックされている」
という記述があり、
うわあ、また大げさな偏った言い方してー。
と思ったのだが、きちんと読むと、元グーグルやフェイスブックなどの従業員が「テクノロジーの利用でスマホや(PCも多分)手放せない」ことへの警鐘を鳴らすための運動を始めたという記事だった。(特に子供に対しての悪影響を懸念している内容であった)
Ex-Google, Facebook Employees Fight Tech Addiction
訳すの面倒だなあと調べてみたら、日本語版の記事もあった。
“テクノロジー中毒”を警告する団体、元GoogleやFacebook関係者が結成
「われわれの注目をマネタイズする競争として始まったことは、われわれの社会の柱であるメンタルヘルス、民主主義、社会的関係性、そして子どもたちをむしばんでいる」として、Facebook、Twitter、Instagram、Google、Snapchat、YouTubeの弊害を挙げた。」
何を今更。最初からサービス利用のバーターに広告が出ていると知って利用し続けてきた技術ではないか、と思うのだが、一方でそういった事実を忘れつつある自分にも気づかされる。
世の中には人間の処理速度では一生かかっても追いつかないほどのたくさんの有象無象の情報が溢れ、その中で自分に本当に必要な情報を精査するために、精査をベースとする無料の編集やまとめサイトが生まれているが、それすらも種類が増えすぎて、さらにそれらをまとめるサイトが生まれている。それなのに本当に有用な情報は、ほんの一握りしかない。そう、「無料」では。
お金を払えば、もちろん欲しい情報だけがすぐに手に入る。問題は、私たちの目に日頃無意識に入っているほとんどの無料情報が「広告の意図を含んだ情報」であるということだ。それらの情報に24時間365日ずっと晒されて生きているわけであるので、もちろん身体は慣れてくる。そして、次第にそれらが「広告の意図を含んだ」ということが忘れられていく。Googleの検索情報の順番、食べログのランキング、 amazonの星の数、facebookの露出記事など、普段身近に触れているものの全てが裏でお金が動いた結果であることを意識できていながら毎日を過ごし続けることは難しい。なぜなら、一つ一つの情報が最先端のマーケティングの中で違和感がないように個人の意識の中に入ってくるからだ。
データ駆動型(ドリブン)マーケティングという記事が本日の日経新聞でもあったが、これがまた結構リスキーな技術だなと個人的には思っている(過去に仕事でまさにこの技術活用の一部に携わっていたのだが)。まさに、個人の意識を無意識に固定化してしまうものだからだ。自分が興味関心を持っているもので商品になるものをどんどん最適化されて広告表示されていくうちに、自分の思考がそこから逃れられなくなる可能性がある。例えば、私はここ最近はペルシアの文化ばかり調べていたら、それらに関する書籍や映像の広告情報ばかり流れてくるようになり、そのほかに興味のあった園芸やコミュニティづくりなどの情報が表示されにくくなった。本来なら全く新しいものに出会うかもしれなかったのに、既存の関心があるものに近い商品や広告に無意識に流されていってしまう。こういったことが絶えず起こりうるスマホやSNSの情報に、ネイティブで小さい頃から関わっていると、そこには無い「客観性」に気づくことなく、受け止める情報が全てだと思ってしまいがちだ。
その意味では、確かにこの記事の伝えていることは一理ある。デジタルの過渡期を経験しているはずの私たちがいつの間にか無意識に全面的にテクノロジー依存しているだけでなく、生まれながらにしてデジタルネイティブな子供達には、その情報が実は「客観性がなく」「真実では無い」可能性がある、という認識をする機会がない。
そんな中で、日々流れて加速していく情報化社会の中で自ら必要な情報を選択し、時には有料の情報(書籍や有料コンテンツ)を活用しながら、流されないで生きていくためには、一度鮮明にそのギャップを感じる必要があると思うのだ。
ここまで読むと、勘の良い方は私が何を言いたいかお分かりだと思う。
そう、そのギャップを感じ、広告およびデジタルのスピードやテクノロジー中毒・依存症からのリフレッシュには「個人旅」がオススメだ。さらに、交通が不便で、混んでいなくて、自然が多くて、美味しいものが食べられて、温泉があって、メールや呼び出しも入らず、自分とこれからの生き方についてゆったり向き合える時間が取れるような、デジタルフリーになれる場所が最適だ。
そして「果たしてそんな場所があるのか?」という疑問に対して、待っていましたとばかりに「あるよ!」と力強く伝えたいのが奈良中南部の「奥大和」と呼ばれるエリアである笑。
実際私も昨年四月までは東京に住んで、WEBサイトのデータ解析と表示の最適化の仕事に忙しなく取り組んでいた身なので、奈良に戻ってきた時に良くも悪くも激しくギャップを感じた。
「自分の暮らしは自分でやる」ことで手や体を直接動かすこと、思い通りにコントロールが及ばない自然環境で自分なりに創意工夫すること、自然に身体を調和させること、自分が人間である前に動物であり五感があることを再認識すること、必要だと思っている情報や技術は実はあまり必要では無いこと、「情報を取り込み続けなければ世間に遅れる」と思っているほど生活は実際に遅れないこと、自分たちが目盛りをつけている「時間」は本来地域や季節によって異なるものであり、もっと大きな営みの中で変則的に巡っているものであること、デジタルテクノロジーは所詮身体能力の「電波と電気の有限性がある拡張機能」でしかなく有事のサバイバルには結びつかないものであること。などなど。
これらの経験を身体で得たことによって、当初Uターンする時に想定していた以上にタフで、客観的になれた気がする。正直「客観的に情報を選ぶ必要性」という側面では、トルコ生活で得た「イスラーム文化の豊かさ、欧米文化と資本主義が全てでないこと、そしてメディア報道の偏り」を身をもって知ったギャップに勝るものはないと思うが、「デジタルスピードとリアルの身体のギャップと調整」という意味では奈良での暮らしが最適だ。
「あっ、こんなに流れる時間も価値観も違うんだ。ホッとするなあ。」
と思う。そして、そう思うだけではなくて、その生活時間を知り、都市の生活時間を知ることで好きな時にどちらも生きることができる。私も初期に比べるとだいぶデジタルデトックスに慣れてきたように思う。旅をするにもスマホに頼りすぎず、目で見るもの身体で感じることをもっと豊かにしていきたいし、それらの時間を大切にする魅力を一緒に感じてみて欲しいとも思う。
奈良の中南部でそういう場所を作っていけたらいいな。テクノロジーやスピードデトックスをしてリフレッシュしながら、結論を急がされず、ゆったりした自分の時間を自分のために大切に過ごせる空間。そして、「心に余白」が生まれたら、家に帰った後も新たに色々なことを場所の制約を超えて面白い人と一緒に協力しながら作っていける空間を。
そんな、自身の「好奇心の旅」が整う巡礼地(メッカ的な場所)になりたい笑。不思議なことに、奈良にはそれだけ懐が深く、人と時間を結びつける磁場があるように感じる。
考える暇なく過ぎていく毎日の生活から自分を一度切り離して客観的に見直すための、テクノロジー・デトックスの旅なんてどうだろうか。(昨日までは「現世離脱旅」とか「現実逃避旅」とか言ってて、友人のひんしゅくを買っていた笑。)