2018-03-19

PechaKucha night 奈良に登壇させてもらいました〜ペルシアから奈良への文化伝播〜

きっかけは、この「古今東西、好奇心の旅」の問い合わせフォームへいただいた一通のメールからでした。

「初めまして。 WEBサイト拝見しました。とても面白いです! ペチャクチャナイトへプレゼンターとして登壇されませんか?」

WEBサイトにメールをいただいたのがまず嬉しかったのですが、

ペチャクチャナイトってなんだ!?
それは、私で大丈夫なのか?

ということで調べて見ました。

PechaKucha(ぺちゃくちゃ)とは

PechaKucha(ぺちゃくちゃ)というのは、もともと日本発祥で現在は世界で開催されているプレゼンテーションイベントだそうです。東京で外国人の方の手によってイベントが生まれたものの、日本では流行らなくて海外に持ち出したところ、大ブレイク。海外で人気を博したことで、今更また日本に逆輸入(?)されてて、各都市で積極的に開催されるようになったとのことです。

PechaKucha(WEBサイト)
PechaKucha 20×20

それが奈良でもペチャクチャナイトとして開催されているそうです。

ペチャクチャナイト奈良が復活!お酒と音楽とプレゼンで、ちょっとSPICYな夜を!【奈良のイベント】 | ならマガ

イランの記事を見ていただいてのお声かけだったのですが、せっかく奈良で開催されるイベント。それならシルクロードのつながりの話ができたら面白いんじゃないかということで、私はペルシアから奈良に伝わった文化について語ることにしました。

プレゼン当日

プレゼン会場は、奈良駅そばの「白ちゃんハウス」という可愛らしい多目的スペースでした。

 

プレゼン内容(遥かなるペルシアを旅して奈良を想う)

みなさん、こんばんは。AYA MIKADOです。

私たちが普段見ている世界は、一部でしかない。そう思ったのは、学生時代にトルコのNGOで働いた時でした。メディアでのイスラームの報道はいろいろありますが、現地の人々はイスラームの教えである「お互い様」の精神のもと、ゆるい連帯感でつながり助け合い、旅人にもとても親切でした。

そのあったかくてゆるい文化が居心地良く、私はトルコの他にもシルクロードの国々を旅し、文化のつながりを肌で感じてきました。そしてその感動や魅力をもっと多くの方に知ってもらいたく、「古今東西、好奇心の旅」というテーマで発信を続けてきました。

そんな、彼らの「お互い様」の文化はどのように受け継がれ、根付いたのでしょうか。たくさんのキャラバンが砂漠を越え大陸を横断して繋がった道がシルクロードです。そのシルクロードをたどるうちに、それらをつなぐ国々を支えて来たペルシアの豊かな文化の魅力にすっかりとりつかれ、私は旅をすることにしました。(赤い丸が、シルクロード沿線で行ったことがある場所。)

文化における「豊かさ」とは何でしょうか?現代の私たちの豊かな生活を作った欧米の文化は、元々はイスラームの高度な文明を土台に花開いたものでした。そして何もないアラビアの砂漠で生まれた貧しいイスラームを文化的に洗練、発展させてきたのが、かつてのペルシア帝国でした。今のイラン・イスラム共和国です。

ペルシアの古代文明は最盛を誇り、世界中の使者が貢物を持って表敬訪問しました。これは、祭礼のためだけに作られた大規模な都市ペルセポリスです。厳しい冬から春の訪れを祝う、ノウルーズという儀式を大々的に行うための場所でした。

今でこそイランはイスラム教ですが、当初のペルシアはゾロアスター教でした。ゾロアスター教は、火や自然を崇拝するイラン地域の遊牧民の土着の宗教でした。火は尊く、水は恵みであり、鳥と風は死者の魂を天に連れて帰る象徴として大切に信仰されてきました。

6世紀になるとイスラーム教が力をつけ、ペルシアは征服され、イスラム教に改宗します。しかし、彼らは大嫌いなアラブ人が権力争いに利用したスンニ派は選ばず、指導者の正統後継者(正統カリフ)の子孫の血筋を重んじる少数派のシーア派を選びます。
(アラブ人のイスラーム教(後に「シーア派」と区別して「スンニ派」と名付けられる)は当時急速な領土拡大によって経典が形式化し、指導者は権力争いに負けて殺され、有力一族が権力を握り後継者を世襲するようになり、ある意味腐敗してきていた。それと決別するために、最終的に生まれた「ムハンマドの意思を継ぐ正当後継者(殺された指導者)の血を継ぐ者」に同情・共感し、彼らだけを正しいイスラームの指導者として認め信じていくというのが、ざっくりとしたシーア派の趣旨。なので、教えに関しては教科書ベースのスンニ派よりも、指導者という人ベースのシーア派の方が熱いし、なんだったら指導者の偶像崇拝も例外的にオッケー。その、「本当は俺らが正統だったのに蹂躙された(涙)!悔しい!」というシーア派の背景が、誇り高いペルシア人がアラブ人に征服された悔しい心象にフィットしたのもあり、ペルシアではシーア派が国教として受け入れられた側面もあるのではないかと個人的に思っている。(もちろんゾロアスターの後に流行ったスーフィズムの影響も受けてるんだけど))

その後、緻密で優美なペルシアの文化と新しいイスラームの文化が融合し、色とりどりの美しいイスラム建築が次々と生まれていきました。これは写真ですが、イランのモスクは光の反射が美しく、実際見るともっと綺麗でした。
(ペルシアは、イスラームの侵攻で宗教と政治はアラブに凌駕されたが、文化文明はその洗練された高度さから逆にアラブのイスラームを征服し、以後も古来のペルシア語やペルシア文明を発展させたと言われている。これと対比されるのがエジプト文明で、ペルシアと同じく高い文明を持っていたが、宗教でも文化でもアラブのイスラームに征服されてからほとんど独自の文明は残っていない。あとは、エジプトは何度も侵攻されて征服慣れしてるけど、帝国が続いた誇り高いペルシャ人は自らをアラブ人の下に置くことが耐えられなかったという説もあるそうだ。個人的にはアラビア半島の何もない荒野で貧しいベドウィンが興し、その後は勢いに任せてイケドンで拡大してきたイスラームの文化に、繊細や優美、深淵という文化的で洗練された言葉が備わったのはペルシア文明のお陰だと思っている。)

やがてペルシアは、シーア派イスラーム大国として最盛期を迎えます。写真の「王の広場」はイラン建築の最高峰ともいわれ、見る人を圧倒するモスク、宮殿、学校が建てられた他に、バザールでは世界中の商品が集められ、そこ(イスファハーン)には「世界の半分がある」といわれるほどでした。

そんなペルシア文化は、他にも医学、天文学、文学、薬草学など発達しており、ヨーロッパからもたくさん人が学問を学びにきていました。また偶像崇拝がないイスラームならではの、書道に似たカリグラフィーの芸術も盛んでした。(この「書道」という観点も奈良に影響を与えているのではないかと思う。)

<「千年医師物語」の映画やイランカルチャーについて詳しくはこちら>
【旅】イランの何がそんなに面白いんだと思う人へ〜イラン取説〜

彼らの豊かな文化はシルクロードを超えて、ウズベク、ウイグル、中国、朝鮮、そして海を渡って奈良まで伝わりました。調べて見たら、今でも文化のつながりがたくさんあるようなので、いくつかご紹介します。

まず砂漠地帯が多く雨の少ないイランには、貯水のためにカナートと呼ばれる大規模な水利施設が発達していました。今の地下水道の役目を果たすもので、水源となる山麓の井戸に貯めた雨水を、横穴を掘って中心部に水を運んでいました。長いものは数十キロにもなります。(中央アジアや新疆ウイグル自治区では「カレーズ」や「坎児井」と呼ばれる同様の水利施設があるが、大規模かつ長距離なのはペルシア帝国。大規模なインフラとしての灌漑施設の制作と安定した送水の維持には、広範囲の領土と治安の良さと大量の資金源と労働力という前提条件が必要なため。今関心があるのはローマ水道の成り立ちと何か影響を与えているのではないかということ。)

その技術は、今の「東大寺のお水取り」で福井の若狭から奈良までのお水送りの仕組みに影響を与えたのではないかと言われ、また「達陀の儀式」でのお松明も、ゾロアスターの火の儀式の影響を受けたともといわれています。さらに「春を迎えるための儀式」という点では、このお水取りを含む修二会そのものがイランのノウルーズの儀式と重なります。

(「祭壇をぐるぐる回る」という儀式の行為自体も、ゾロアスターの影響を受けたスーフィズムと関係あるのではないかと思う(新疆では胡旋舞、トルコではセマーなど、旋回は神との一体化の儀式として捉えられてきた。多分ぐるぐる回っているうちに頭がトリップしてきて、現世と神世のチャネリングができるとされたのではないか。輪廻転生ということで、「廻る輪」にも重要性があるのだろう。考えてみたいことは山ほどある。)。

また氷の保存と加工もイランにルーツがあります。寒暖差の激しいイランでは冬の間に写真左の凹み部分に氷を貼り、切り出して隣の氷室に格納し、夏の間に切り出したり細かく砕いて暑さをしのぎました。これが「シャーベット」のルーツでもあります。シャーベットという言葉はイランの「シャルバート 」から来ています。

<詳しくはこちらの記事で>
灼熱の中東から来た優雅な氷菓子を奈良で。

そして、奈良にも氷室神社があり、天理には氷室神社の他に氷室自体が残されて、同じく氷が作られ、格納され、夏にはかき氷という氷菓子が生まれている。前々から奈良に製氷業者があちこちで存在するのが不思議だったのですが、これらの前提を踏まえると納得できます。

そして食。古来よりペルシャでは、食材が持つ性質を「温・冷・乾・湿」の四つに分けて考えてきました。フルーツやナッツ、ハーブをふんだんに使い、バランスよく組み合わされた優しい味の薬膳料理は、旅人の心も体も元気にしました。
(中国の漢方の考え方にも近い。)

ハーブ好きな彼らは、交易で持ち運びやすく日持ちがするようスパイスを作り出しました。ペルシアから奈良へは胡麻や胡桃などたくさんの食物が伝わりましたが、正倉院には、当時のコショー、クローブ、シナモンが今でも眠っているそうです。
(スパイスというとインドを連想する人が多いが、ペルシア人とインド人はもともと遠い祖先は同じアーリア人。なので、近しい文化のもとでハーブやスパイスを多用する食生活が形成されていったようだ。今でもペルシアからイスラームに駆逐されてインドに逃れたゾロアスター教徒「パールシー」の人々が湾岸に住んで貿易で栄えたりしている。)

そして織物。「獅子狩模様」や「唐草模様」と呼ばれる模様が奈良に伝わりました。例えば法隆寺の四騎獅子狩文様です。獅子というのはまさにペルシア王の強さや春の象徴でした。(牡牛は冬の象徴)

まだまだ金魚や金魚鉢、ガラスの技術、鉱石の採掘、さらにはペルシアの役人が奈良の朝廷に務めていた話など、中国を経由してペルシアと奈良の繋がりを示すものは多く残っていますが、私はイランに行き、確かにペルシアと奈良がシルクロードで結ばれていたことを実感しました。そう、私たちが当たり前に見ていたものは、古くからの大陸との文化交流で育ってきたものなのです。(奈良の姉妹都市にイランの都市が入っていないことが、個人的に残念)

今の奈良は「未開で何もない」とよく言われます。ですが、歴史を知れば知るほど、当時の奈良は世界中の人や文化を積極的に受け入れローカライズし、日本各地に普及させてきた先端の国際都市であることがわかります。私は、今日のイベントのように、多様な人が混ざり文化を生み出すことで奈良にまた豊かな都市になっていって欲しいと願っています。

ありがとうございました。

質問は「金魚」の話をいただきました。金魚と金魚鉢はイランの新年と春を迎える伝統的なお祭り「ノウルーズ」でお供えに必要なアイテムなのですが、この金魚文化と、金魚鉢がなぜ丸いかについても語ると面白くて話が終わらなくなってしまうので次回に回したいと思います。

いずれにせよ、大変貴重な経験をさせていただきました。

ありがたいことに、このイベントの後にブログを読んでくださったり、また「プレゼンの形式の制限で言えなかったことのフルバージョンが聞きたい!」とおっしゃってくださる方も多く、今後スピンオフ的にトークイベントやイラン料理、ペルシャンダンスのイベントをさせていただけるかもしれません。

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