【BOOK:声が生まれる】なぜ自分の声は相手にとどかないのだろう?
「なぜ自分の声は相手にとどかないのだろう?
こんなに一生懸命発しているのに
何か上滑りしているような、
どことなく空虚な響きがするのだろう?」
これは「声が生まれる」という本の一部分。
久しぶりに読んだ。
これは、私が十年前に劇団でアマチュアの役者をやり始めた時に読んで感動した本であった。また、実際にこのかたの方法でのワークショップを体験して、自分の声にいかに意識を集中していないかを思い知った。その時の日記がミクシィに残っていたので、ちょっと思い出としてこちらにも残しておく。
以下は本文からの引用である。
設定としては、著者(本文中:私)が主催する「話し方のワークショップ」で、参加者の中で一人の男性が呼び掛けをする側となり後ろに立ち、前に背を向けて立っている残りの参加者の人々の誰かに向かって何でもよいので言葉をかけるというものだ。
そこで男性は次のように言ってみた。
「いつか映画にいきませんか」
しかし、聞き手は誰も反応しない。
「誰にも言ってないみたいだ」
「声がもやーっとしてこっちに漂ってきたけど・・・」彼が声をかけていたつもりだった人を指摘すると、当人は悲鳴を上げた。
「うわっ、気づかなくてすみませーん。」
しかし、本当に「すみませーん」と言うべきなのは呼びかけた方である。
そこで、私は聞いた。
「一緒に映画に行きたいと思ってるの?」
「はあ・・・」
「だったらなぜ今じゃなくて、「いつか」なの?」
「あんまりいきなりじゃ、悪いかなと思って・・」
すると、声をかけられた相手が声を上げる。
「そんなことわからないじゃない、きいてみなければ!」
そこで、みなが笑い出す。そこで私が言った。
「「いつか」というのは、こういう気持ちがあるとはいうものの、
それを実現するつもりは今のところありません、ということだろう。
それは気持ちの表白ではあるけれど、相手への働きかけ、アクションではない。もう一度やってみよう。」
そしてTAKE2。
「映画に行きませんか?」
「あ!」
と手をあげかけた女の人がそのまま考え込んで
「肩に声が来たから、あたしに言われたかなと思ったんだけど、
すっと声が帰っていっちゃったから、映画に行こうって気は起こらなかった・・・」
見ている人たちの中で何人かが
「言葉の終りのほうですっと身を引いたみたい」といった。
そこで私がもう一度促す。
「行きませんか?とはどういうことだろう。行きたかったら「行きましょう」と言えばいい。「ませんか」は「決定はあなたにおまかせします」ってことで相手を尊重しているように見えるけれど、実は働きかける責任をとることは避けている。やはり相手に直に働きかけていない。」
そして、最後にもう一度男性に試してもらう。
すると、彼はもじもじしたまま、なかなか言葉を発さない。
そのまましばらく時間が経って、とうとう「どうしたの?」と聞いてみるとその男性がポツリと言った。
「・・ほんとは特に映画に行きたいわけでは無いんです。」
やっと気づいたか。そうなのだ。
さっきまでの繰り返しは自分にその気が全くないのに、それに気づきもしないで、ただ単にしゃべり続けていたのである。
そんな彼の声に「情熱」も「リアリティ」もないのは当然。「声が届かないということは、話しかけ手が相手に呼び掛け働きかけて、相手と自分との関係を変えていくアクションを起こしていない、あるいは起こしていても貫徹しきれなかったことの表れである。つまり、この男性は自分の周りの人に働きかけるプロセスの欠如あるいは弱さに気づき、出直す必要性に気づけたということだ。」
これを読んで「声を上げる」「声をかける」ということが、非常に難しいことだという実感がわいた。そこで自分の望むリアクションをしてもらうためには全身全霊となるので、気も使うし、へとへとに疲れる。
でも、日常においてはそんなふうに感じない。そこから如何に日常の会話が薄っぺらいかということにも逆に気づいた。
演劇のセリフにおいても、プロジェクトにしても、ちょっと自分の発言を見直さないとって思った。せっかくの人間関係でも、気付かないうちに結構もったいないことをしているかも知れない。だから話すのに芯と情熱が必要なのだ。
・・・・・というのが10年前の私の気づきである。
10年経って、その時の学びは個人的に生きているように思う。本当に、いつどこでどんな経験が身を助けるかわからないものだ。だからこそ、興味の引き出しは多い方が良い。
キャッチと本文の写真は、友人のけんちゃんがOkatteでのペルシャイベントで撮影してくれた写真。