2018-07-08

【BOOK】「イブラヒム、日本への旅」〜伊藤博文とイスラームが出会う時の日本〜

特にそれ専門の専攻をしていたわけでもない一般人としては、私はイスラーム教やイスラーム文化にゆかりのある本をかなりたくさん読んでいる方だと思う。

その中でも「めちゃくちゃ面白い」本を見つけた。これは感動レベルに面白く、私のタタールスタン(カザン)への憧れをさらに掻き立て、ロシアにおけるイスラーム文化への興味を深め、近代日本におけるイスラームの歴史認識を塗り替える内容であった。(たまたま今回のW杯でもカザンが出ていたのでびっくりした)。むしろ、イブラヒムがこんなに歴史に残ることをしているのに今まで全く文献で出会わなかったことが残念でならない。それぐらいイブちゃんは明治日本に影響を与え、東京モスクの建設に関わり初代イマームを務め、さらには世界のムスリムに日本に対する好意的イメージ醸成をした重要人物だったのだ。知らなかったなんて、恥ずかしい。。。。おかげさまで、今でもイスラーム文化圏を旅をしているときに日本人としてとても親切にしてもらっています。 もちろんそれだけのせいではないとは思うが、「やはり彼の残した影響も大きかったのではないかと」自分の旅を今更振り返って見たりする。

それがこの本だ。いやもう絶対読んだ方がいいって。この本を出した人は天才だと思う。めちゃくちゃ面白くて一瞬で読み終えてしまった。

今からおよそ100年前のこと、オスマン帝国の首都イスタンブールで一冊の本が出版された。そのタイトルは「イスラーム世界〜日本におけるイスラームの普及」という。(中略)この本はありそうにもない絵空事を描いた空想本ではなく、著者が実際に行った長大な旅の極めて具体的な記録と感想なのである。そして、この旅行記はトルコ語を解するオスマン帝国やロシア領内のムスリムに広く読まれ、彼ら(イスラーム教徒達)が(後の)日本と日本人に関する(好意的な)イメージを作り上げる上で重要な役割を果たすことになった。このイメージは、出版から100年以上を経た現在でも、なお人々の間に見いだすことができる。

そして、この著者の軌跡を辿ると、世界史の点編と連関のさまを見ることができる。

そこではロシアとイスラーム世界、そして日本という、一見すると関係が薄かったように見える三つの地域が、いくつもの歴史の糸で結ばれていたことが見えてくるだろう。それは、明治の末に始まる、およそ100年来の日本史、東洋史、西洋史という伝統的な区分に従っていては見えてこない、世界史の動態と連関を垣間見せてくれるかもしれない。

見た見た! 垣間見た!!!
私にとっては、本来こんな感想を書く時間ももどかしいぐらい鼻血気味に前のめりな本なのだが、そうすると伝わらないとは思うので我慢していくつか面白い部分を書き記したいと思う。詳細はぜひ自分で読んで見てくださいませ。

イブラヒムの「ムスリム・ジャーナリスト」としての旅と行動力は目を見張るものがあるし、個人的にはそういったあくなき知的好奇心に憧れを禁じ得ない。
細かい彼の経歴は以下を参照してもらえると大体わかる。

アブデュルレシト・イブラヒム – Wikipedia

イブラヒムは、持ち前の旺盛な好奇心と行動力を持って(ジャーナリストとして)日本と日本人の観察に着手する。彼の目と耳は、客を求める按摩の笛の音や丸薬「仁丹」の普及ぶりから日本の軍事力までを捉えていた。はじめは日本語がわからなかったが、ロシア語に堪能な中山逸三(東京外国語大学ロシア語科出身)と知己を得たこともあり、ロシア語を介して多様な日本人と会話している。もっとも、「言葉の組み立て方がトルコ語と似ていることに気づいてから、大いに学習意欲が湧いてきた」というイブラヒムは、日本語会話の習得に精進し、10日あまりのうちに「東京に行ってくるだけの語学力」を身につけたと書いてある。

そうなのそうなのよー、一説には言語体系が同じウラルアルタイ語族という話もあったりなかったりして、実際日本語とトルコ語は構造が似ているから親しみやすいんですよ!!私もそう思いますー!

というのは置いといて、

日本滞在中、イブラヒムは村人や市井の人々と親しく交わりながら、親交を得た大隈重信や徳富蘇峰のつてをたどってであろう、多くの政治家や名士、大学教授などと次々と面会を果たした。この中には、伊藤博文、犬養毅、(中略)、陸軍元帥大山巌、実業家大倉喜八郎、黒龍会の領袖、頭山満と内田良平などのそうそうたる人物が並んでいる。

彼が行った講演会の一つとして、史談会の話が引用されている。

『自分がロシアにおります時分、ロシアの新聞雑誌によりまして、日本というものを知りましたが、芸者および人力車ということのほかは、あまり紹介しませぬから知りませぬ。ただ今は以前の感想とまるで違いましてございます。日本国民の大和魂に大いに鼓吹しましたのは、仏教が大いに功があったと思います。仏教はインドから支那を経てなお朝鮮を経てきましたけれども、日本の仏教はインドの仏教と違って国体に適したる所の日本的仏教、すなわち日本の宗教ということを言っても差し支えないと思います。

(中略)

大和魂というものがあれば欧州以上に進歩して欧州を凌ぐごとき強国となることが必ずできることを自分は信じて疑いませぬ。

(中略)

近い将来において日本は太陽のごとく全世界をかがやかすだろうと自分は考えております。太陽は西に没しますから、欧州は近き将来において太陽の西没するごとくなると思います。自分は日本を先生と仰ぎ、かつまた日本を非常に尊敬しておりますから、どうか全アジア人を教育していただきたいのが自分の目的でございまして、将来アジアを同盟結合することにぜひご尽力を願いたいというのが自分の希望でございます。』

こういった流れで、イブラヒムは次々と日本の要人との知り合いを作り、ついに首相伊藤博文と面会を果たす。彼は冒頭で、伊藤にこのように自分たちのことを訴える。

「総じてイスラームの民は、私たちタタール人は特にですが、いつも圧迫の下に小さくなっております。ヨーロッパ人は、十字軍以来イスラーム教徒に常に敵意を持っております。この200年の間に彼らが取ってきた政策は、全て反イスラーム的なものでした。ヨーロッパにおいて、東方問題が拡大していけば、人種問題の扉が叩かれ(黄禍論のことか)、私たちの問題が一つになるであろうことは明らかです。私の考えでは、本来西洋人がもっとも恐れているのは宗教問題なのです。列強はイスラームの精神的な力にとうに気が付いています。政治的な力にしても、それを支えるのは宗教です。より正確には、大砲よりも、銃よりも、装甲艦よりも、大型戦艦よりも強い武器があるとすれば、それこそ宗教なのです。軍艦はひとりでに動くことはありません。大砲は自動で発射する事はありません。軍艦は、乗組員や士官が宗教の名において自らを犠牲にして始めて、その務めを果たすことができるのです。そこで宗教の力を自分たちのために役立てようと、イスラームを常に敵とみなし、世論をその方向へと導く。列強の考え方、政策は全てこれなのです。」

さらに、イブラヒムは中央ユーラシアから地中海に広がるトルコ系ムスリム地域の地政学的な重要性を指摘し、この潜在的な政治勢力と日本との、ヨーロッパ列強の支配に対する連帯の可能性を示唆し、伊藤もこうした議論には関心を示していたようだ。伊藤はついで、治外法権の撤廃と立憲制の導入に伴った苦労話をイブラヒムに話して聞かせた。そして、彼が最後にした質問が「イスラームとは何か」ということだった。

それに対し、イブラヒムは「イスラームはたいそう簡潔な宗教です。端的に申せば、イスラームとは一神教と慈悲の徳とからなるものです。」と、イスラームの本質を表現する信仰告白(シャハーダ)の言葉を説明する。その過程でなんと伊藤は「アッラーの他に神なく、ムハンマドは神の預言者なり」というアラビア語の言葉をイブラヒムに倣って繰り返し口にしたと言う。もしももう一人成人のムスリムが同席していたなら、彼はうっかりイスラーム教を受容した(入信した)と見なされるところであった笑。

イブラヒムが日本の知識人や要人との会見で強調した事は次の三つであった。

第一:(彼によれば)日本の急速な発展の要因は、日本人が生来の精神的な価値(大和魂)を堅持しながら、換言すれば自らの伝統とアイデンティティを喪失することなく、西欧の化学・技術を積極的に受容したことにあったと言うこと。

第二:いたずらな西欧化、とりわけキリスト教宣教師の活動に対する批判。
(ここには、「キリスト教に対する汎イスラーム主義者の直裁な嫌悪感や拒否感というよりは、むしろ宣教活動を通したいわゆる文化的帝国主義の脅威を経験してきたムスリム知識人の認識を読み取ることができる。」、と筆者の見解が添えられている)

第三:西アジアから東アジア、東南アジアに広がるイスラーム世界の地政学的な重要性。
(彼によれば、中国への勢力拡大を図る日本に取って、中国ムスリムは最善のパートナー足りうるのであった。それはまたイスラーム世界と日本の結合によってアジアの統一を実現し、ヨーロッパ列強のアジア支配に対抗するという遠大な戦略の一環でもあった。そのためには日本人のイスラム改宗が最短の道だが、「日本人の天性の美徳はイスラームの教えと完全に合致している」ことを発見した彼も、明確な国益と必要性がなければ日本人の改宗はありえないことを理解していた。)

「もし日本に(モスクのような)イスラームの象徴が据えられたならば、(アジア統一に向けての)問題は速やかな展開を見せるに違いないと思われます。日本にこれがないばかりに、いくら日本人を東洋の指導者に押し立てて見たところで、中国(ムスリム)の熱い期待に応えることは難しいでしょう。」というイブラヒムの話に、アジア主義者の大原武慶は賛同し、東京モスクの建設に熱意を燃やすとともに、自らもイスラームに改宗をしたという。彼にムハンマドの跡を継いだ初代正統後継者(カリフ)アブー・バクルのムスリム名を与えたのも、日本を欧米列強に相対するようなイスラーム世界発展のモデルと考え、その統治者としての正統後継者「カリフ」としての役割を日本に担ってもらいたかったとも考えられる。そして、イブラヒムと日本の要人達は何度も建設の見通しを立てては断念するというプロセスを繰り返し、ようやく第二次世界大戦直前の1938年5月に東京モスクの開堂式に漕ぎ着けることができた。同じ年には、陸軍大将の林銑十郎を初代会長として大日本回教協会が誕生している。その設立の趣旨は、「東亜新秩序の建設」に当たって「世界に三億人を超えるムスリム諸民族」の存在に注目し、彼らと日本の間に緊密な関係を築くことにあったという。

これらを踏まえると、当時の日本の要人達がイスラームにおいて進歩的な考えを持っていたことが見て取れるのと、当時の様々な政情はあれども現代でも日本にイスラームの文化的側面は馴染みうるんじゃないかなという親近感が湧いてくる。また再建されたものとはいえ、何度も訪れている代々木上原(現在)の東京モスクの成り立ちへの関心も今まで以上に増すというものだ。
なんにせよ、イスラーム世界から消えた「カリフ」の存在を日本に見出そうとした、イブラヒムの日本に対する熱意を通して当時の激動の西洋化の時代の中での新たなイスラームのあり方を懸命に求めた彼の姿が生き生きと描かれている。それはまた、当時の日本にとってもある意味「アイデンティティ」の維持という意味で通じるところがあるのではないかと思われる。

なんとなく、イスラーム圏の人々が日本に好意的で旅がしやすいのもこういう経緯で育まれた親近感なのかなあと思うと、この本のおかげで、また新たな思考の引き出しを見つけられた気がする。

そして私は現在、ロシアに、タタールスタンに行きたくてたまらないのだ。

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