2020-04-19

やりたいと怖いという気持ちはいつも共存している

3年前に、生まれて初めて「自分の目線で歴史を語るイベント」をやった。

わたしはいつも商業交易ネットワーク経済観点から探求しているから、欧米にとっては裏側となるような歴史にハイライトをしたわけだけど、こういうある意味センシティブさを併せ持つ文化活動では、好んで非難や持論の正解を展開しに来てくれる使命感の強い人や、特定の政治的宗教的思惑に誘導したい人もごくたまにいる。

最初はわたしも怖くてしょうがなかった。

その人にはその人の信念があることは伝わるし、それはそれで素晴らしいことなのだが、それによって周りに広がるような楽しさや興味関心は何も生まれないからみんなが聞いてて辛い雰囲気になってしまうのだ。そしてわたしはわたしで十人十色の見方があると受け流すだけだから、結局その人自身もストレスを溜めて帰ることになるので、正直誰も得しない。

でも、トピックスの魅力や、自分で探求していく面白さはどうにか伝えたい。

だからそう言う人達が出来る限り退屈でつまらないと感じるような、客観的でセミプロすれすれ的を良しとするコンテンツをいつも目指している。

調べ切らない、正解や完璧を目指さない(歴史自体が誰かの目線による編集物に過ぎないから)、アカデミックさや権威を目指さない(聞いていて面白くないから)、目指すとしたら「親しみやすくて探求したくなる、興味が湧いてやってみたくなるような、(わたしが)とっても面白いと思うコンテンツ」である。話題のきっかけは作ったから、あとはご自分で煮るなり焼くなりどうぞ好きに探求して、という編集と探求の余白こそが、能動的な面白さを生み出す秘訣だと思う。

その意味では、私のイベントなども、どちらかといえば「その人の偏愛にあふれたマニアックな自由研究発表」みたいなもんでありたいから、レクチャーという表現はあまり合わないんだと思う。

表面的な言葉なんてどうでもいいけど、やってることはエンターテイナーやキュレーションに近くありたい。

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