私が蔵コレをやりたい理由〜片付けではなく、整える〜
「実家の片付け方」という本が目にとまったので読んでみた。家族の遺品整理や、終活に関しての準備といった内容だ。私自身、我流でわんさかやっているので特に知りたいわけでもなかったので、やり方をしらべるというよりは本になる内容がどういったものかということと、「片付け方」という言い方が気になったのだ。しかも「完全版」と書いてある。これはみんなが読んで「すごい」と思うことが書いているのかもしれない。読んでみなければ。
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すでに取り組んでいる者の感想としては「マインド面は参考になる部分もあると思うが、実務面はそれほど参考にはならないかも」。実務面はたぶん後付けで調べた情報なんだろうなあという感じ、もしくはあまり具体的ではなくて直接的な行動の参考にならない。(もしくは古いのか?)
また、「片付け方」という言葉の表現も気になるのだ。単純に「片付ける」なら不用品回収業者にまるっとお金を払って引き取ってもらえばいい。だが、自分のものではなく、つながりのある家族や遺族のものの処遇を考えるのに「片付ける」っていう言い方をするのもちょっと違和感があるのだ。片付けをしていると、ひたすら有象無象の物が出てきて、それらが過ごした時間や思い出も関係なく、ひたすら不要な邪魔物としてどんどん捨てられていく。それは無機質に淡々とやっているつもりでも、心の何処かに違和感が残るし、だんだんテンションが下がってくる。だからこそ、何も思い出さないように一括で代理業者に頼もうと思うのも無理はない。逆に、自分が嫌いな人の持ち物を処分するならば、「お前のものを跡形もなく捨ててやるぜ!!!わーはははは、ざまーみろ!!」といった感じで、むしろその方がしっくりくるのだと思う。
概して「そこに自分の知らない思い出や価値が存在する」中で、自分のものよりも他人のものを捨てるほうが心の負担や葛藤が大きいし、時間もかかる。
私が今取り組んでいるのは「まだ生きているけど認知症になってしまい、自分のものさえわからなくなっている祖母」のものの整理。物には魂が宿ると昔から言うけれど、祖母が好きだった服とか小物をみていると、その膨大さに気が遠くなりそうになるのと同時に、手に取ったものの一つ一つから祖母の葛藤や成長、人生のようなものを追体験するような不思議な感覚に襲われる。いいとこのお嬢さんなのに学生時代に大阪大空襲で屋敷も財産も全て失って、学びたかったのに大学に行けず、疎開先ではいままで愛想を振りまいていた人々から手のひらを返したように嫌がらせや見下しにあって、他人の裏表と物が無い時代を経験して、その後も見知らぬ旦那の元に嫁ぐことになって、やったこともない十数人もの仕事人さんの食事や身の回りの面倒を見て、家業の商いを覚え家を支えながら、いじめてこようとする後妻の姑さんとも戦う。旦那は全く妻のことも家のことも顧みないし、おぼっちゃんなので自分では文字通り何もできない。自分以外の人のことを思ったり、配慮することを教えられてこなかったのだ。その様々な行き場のないストレスの気晴らしとして、おしゃれや旅行や運転やゴルフに費やしてきたと思うと、なんとなく理解できる。実際に、祖母はわがまま気ままな子供のような人で、手足が長く長身のモデル体系で身綺麗にしており、ハンドルが鉄のように重くて当時の女性がほとんど出来なかった車の運転も好きで、英語もロクに話せないのに世界中を飛び回って、プライドが高く弱いものいじめは絶対許さず、いつでも輪の中心で注目を浴びるのが好きで、バーで隣になった人と誰でもすぐ親しくなってしまうような自由な人だった。もちろん自分の老い先に必要なお金や、後に残される家や家族の将来や相続なんて、若い頃から現在に至るまで考えたことはない。祖父はそれに輪をかけて周りが見えず、最初から最後まで自分のことしか考えられない。それで母や私が本当に苦労しているのだが、それもある意味、戦前からの時代や教育、旧家庭の名残であるのかもしれない。
膨大にある、錆びたりカビたりして残されている靴、バッグ、積み上げられた服を改めて手に取り整理する中で、面倒だと恨めしく思う一方で、それらの世界中の美しいデザインや高い品質の一点物達が生き生きと活躍した時代や、祖母の自由への飽くなき欲求を感じながら、私の心も少しずつ祖母が生き生きしていた時間に向き合っていく。まるでそれは、祖母の生きた激動の時代の人生を同じ目線で追体験をしているような不思議な感覚なのだ。私にとってはこれも、「真摯に祖母に向き合う」ということの一つであり、その作業を経ることによって私自身の心が徐々に整理され、祖母との時間が積み重ねられていくのである。
それはまるで一つの通過儀式か何かのようでもあり、物に向き合い、朽ちているものは捨て、手入れが必要な物は丁寧に手直しをする。そしてそれらの心のこもったアイテムは、まるでタスキのように新たに大事にしてくれる方の手に渡り、喜ばれ、そこからまた誰かのあらたな物語を紡いでいく。そこで得られた対価は、その祖母の思い出のものが残されていた蔵を改めて「バーで隣の人と仲良くなれるような、コミュニティスペース」として蘇らすための費用となる。
そうして大事な人の「大切にしていた物」、かつ素晴らしい職人さんやデザイナーさん達が生き生きと腕を振るった時代の「素敵な時間を感じるもの」を通して人の心と物の価値が未来につながり、新たな形で羽ばたいていく。
それはとても意味深いことだと感じると同時に、残される家族たちの心のつっかかりを羽根のように心地よく消し去ってくれる。人に譲る判断をした物でも「素敵なデザインだね」、「大事にするよ」と言った一言をもらえたり、そのアイテムの写真一枚を手元に残すだけで本当に心が落ち着く。
それらの意味も含めて、私は「蔵コレクション(略して「蔵コレ」)」とファッションショーをやりたいと思っているのだ。