大阪と築地をつなぐ佃と本願寺の縁
「本願寺」と言われると、何を思い浮かべるだろうか。
大阪が好きな人なら石山本願寺や、現代の北御堂(津村別院)、南御堂(難波別院)を想起するかもしれない。京都の人は徳川によって東西に勢力を削がれてもなおそれぞれ壮麗強大な西本願寺、東本願寺を思うかもしれない。
しかし、わたしが思う本願寺は、本願寺門主でありシルクロード探検隊長の「大谷光瑞」であり、数々の和製シルクロード風建築物を造り上げた日本建築学会の祖である「伊東忠太」だ。
伊東忠太は、東京帝国大学(現在の東京大学)名誉教授で、建築研究のためアジア各国を旅していたが、時を同じくして、中央アジアへの仏教の布教及び、考古学研究のために探検隊を結成しシルクロードを旅していた大谷光瑞(当時の浄土真宗本願寺派門主)と運命的な出会いをした。
このコンビが後に作った本願寺や別院たちは個性的で、本当に和製シルクロードを体現していて美しく創造力をかきたてられる。
その代表的なものが、兵庫の本願寺神戸別院と、京都の本願寺伝道院、そして今回話したい築地本願寺なのである。
そして、また別の記事で書きたいと思っているが、大谷光瑞の別邸の六甲の「二楽荘」という豪華絢爛な別荘も、アラビヤ部屋、支那部屋などと家の中で世界旅行が出来そうな素晴らしく贅沢な出来栄えだったと聞いている。(火災によって現在は残念ながら残っていない)
そんな、あくなきシルクロードへ布教と探検の旅にでかけた光瑞についてはこちらから知ることができる。
だがしかし、かかし。
光瑞と本願寺そのものの話は置いといて、
今回の私は東京の築地本願寺について語りたいのだ。
築地本願寺の建物は、インド等アジアの古代仏教建築を模した外観や本堂入り口のステンドグラス、数多くの動物の彫刻などが特徴で、オリエンタルな雰囲気は、まさにシルクロードを伝わる仏教伝来のルーツを感じさせる。またその一方で、内観は僧侶のお勤めスペースよりも本堂内の参拝スペースの方が広く、中央正面に本尊阿弥陀如来が安置しているなど、伝統的な真宗寺院の造りとなっているそうだ。2014(平成26)年には本堂及び大谷石の石塀と三門門柱が国の重要文化財に指定された。
まずは、築地本願寺の来歴から調べてみる。それによると、築地本願寺は1617年に浅草近くに創建されるも、40年後の1657年の「明暦の大火」とよばれる歴史的な大火事で焼失。その後、再建のため江戸幕府から現在の地に土地を与えられたのだが、そこは当時はまだ海だった。そこで佃の檀家達が力を合わせて海を埋め立て土地を新たに築き、本願寺を再建した。そこからその地は「築地(つきじ)」という名で呼ばれるようになった。その後、1923年には関東大震災で見舞われた火災にて再度本堂を焼失。その後、1934年に再建された際に、現在のシルクロード感が漂うムガール風な本堂の姿となった。それを制作指揮したのが伊東忠太だった。
佃の民、佃、佃、、、、佃?
そう、長い間大阪歩きにハマっていた私は、佃という地名が大阪にもあることを思い出した。大阪といえば、石山本願寺である。何か関係があるかもしれないと思って調べてみると、なんと大阪の佃で漁業をして暮らしていた民が、幕府に江戸在住の許可を得たところ、江戸鉄砲洲に干潟100間四方(180×180平方メートル)の土地を与えられ移住し、その島を佃島と名づけたそうだ。そして、なんとこれが現在の東京の佃だという。大阪の佃の地名は偶然ではなく深い関わりがあったのだ。
大阪市西淀川区佃は海に近い土地で、古くから漁業が盛んだった。慶長年間、徳川家康が摂津多田神社や住吉神社に参詣のおり、佃の漁民が神崎川の渡しに船を提供したり、白魚を献上したりした。また大阪の陣で佃の漁民が家康を堺からの脱出を助けたそうで、家康の隠密となったとも伝えられている。そのため家康が幕府を開いたあと佃の漁民は全国どこでも漁ができる許可を与えられ、佃の漁民は献魚の役として毎年11月がら3月までは江戸につとめることになった。しかし毎年大阪から出向くのは面倒だということで、江戸在住を願い出たということらしい。
家康にとっても、彼らは江戸の人口増大という大きな課題に対して、埋立や新田開発を助けてくれるありがたい存在だったにちがいない。ちなみに、人口増大で困ることは土地だけでなく、食料もである。そんなわけで、佃の漁民達は漁をした魚を献上するだけでなく、濃い味をつけて保存をすることにした。それが、「佃煮」である。
このために、いまでも月島(こちらももとは築島、が正しいのだろう)の右端の元佃島には佃煮の老舗がたくさんある。そして、そういった漁民達の船出を守ったのは、やはりおなじく大阪の住吉大社から勧進してきた「住吉神社」なのである。ここのお渡りも一度ちゃんと見てみたいものである。
そういった面白い場所である築地周辺では、シルクロード大好き大谷光瑞と、イスラム要素を取り入れつつインドムガル風建築の伊東忠太の愛がつまった本願寺が見られて本当に楽しい。妖怪好きな忠太が好きな、精霊や動物たちもたくさんちりばめられている。
そしてさらに、それだけはなく、築地は大阪の川口とおなじく、外国人居留地として明治に開市された場所であることから、聖路加病院を中心として数多くのキリスト教系私学の発祥の地の石碑が残っている。
これもまた面白いので次回に話したい。
▼ちなみに大阪居留地である川口の話を知りたい方はこちら