庶民の”観光”はどこから来たのか〜大和名所図会に学ぶ心〜
自宅を掃除していたところ、古い本の束の中から変な本のシリーズが出てきた。
「大和名所図会」と記載がある。
開いて見ると、大和地方(主に奈良県内)の様々な地方の絵図が解説と共に記載されている。
鹿せんべいをフリスビーしている様子(笑)。この頃から鹿せんべいがあったようだ。
「大和名所図会」の出来たきっかけ
この大和名所図会は、一体いつ誰が書いたのだろうか。
早速調べて見るために、面白い本を買って見た。
この本によると、
「大和名所図会」は、秋里籬島著、竹原信繁画により、寛政3年(1791年)5月に発行された観光案内書である。内容は広く大和一国の名所・寺社・旧跡などを紹介したもので。奈良地域の歴史・地誌・文学研究になくてはならない資料となっている。それぞれの一枚の絵を解明して行くと、そこに歴史や文学、伝説が盛り込まれており、江戸時代の人々が旅心を掻き立てられ憧れた「大和の魅力」をリアルに体感できる面白さが詰まっている。
寛政というと、江戸後期で文化が爛熟し「東海道中膝栗毛」が旅ブームを引き起こした時代だが、その時に超ベストセラーになったのが「大和名所図会」だ。数ある案内書の中でもベストセラーになった理由を調べて見ると、地方別に編集されている携帯に便利な軽い本であること、観光名所の詳細な説明があり、社寺参詣をメインの目的としつつも、途中立ち寄るべき場所を詳しく絵と文章で記載していて旅情を掻き立てられることなどがあげられる。
ネットもない、新幹線もない、頼りになるのは自分の足と知人の情報だけであったこの時代に、版画技術と流通網の発展も相まって、この本は数千部売れに売れたそうだ。
そもそも「観光」という概念はいつ頃から定着した概念なのか?
世界で一番最初に「観光」という商業概念を作ったのは、ヨーロッパ鉄道時刻表を作ったイギリスのトマス・クック。彼は、旅行代理業者の創始者でもある。1851年のロンドン万博に団体切符を作って団体旅行客を送り込み、世界有数の旅行会社を築くきっかけとなった。
日本における「観光」の発達を調べて見ると、どうやら江戸時代の中期から後期にかけてじわじわ成長していったようだ。
江戸時代前期は、関所で厳しく出入りを管理され、仕事や宗教上の理由でなければ遠路はるばるの旅をすることもなかった。それが、江戸時代の後期は治安も安定して文化が栄えたことと、商業ルートの発達による交通の整備もあり、庶民が巡礼以外にも遠くの旧所名跡を楽しむゆとりができた。そうして、伊勢神宮への「お伊勢参り」の旅のついでとして、熱い目を注がれるようになったのが国のまほろば「大和」であったのだ。
面白いのが、こういった旅の案内書を作ろうと決めた時の秋里は、まだ全然売れっ子ではなかった。しかも、京都の出版社にこの話を持ちかけたところ(一番最初に書いたのは京の都の案内書だった)、「京の人間は朝な夕なに京都の美観を見ているから改めて本を出されたとしても面白くもなんともない」にべもなく断られた。そこで、「あなたはずっと京都に住んでいるから社寺や名所は見飽きているでしょうが、京からずっと離れた人がこの書を見たら、きっと愛でて求める人が多いはずです!」と熱意で押し通し、出版にこぎつけたという経緯がある。
大和名所図会から学ぶこと
このくだりから学ぶことはたくさんある。
一つは、それまでは旅が普及しておらず、各地の情報が人づたえでしか知られてなかったこと。
一つは、庶民がそれほど旅に出られる機会はないこと。
一つは、庶民の識字率はそれほど高くなかったので絵が効果的であったこと。
一つは、道順やお勧めがつぶさに記載されていること。
一つは、当たり前に思っていることが、他の人にとっては当たり前ではないこと。
こういったことから人々が何を求めているのかをうまく時流を捉えて、宗教巡礼の旅から新しい「観光」という市場を派生させていった秋里さんはよく時代を見ていると思う。ここから、旅から観光業のフォーマット化(平準化)が進んでいったのだろう。
以上から考えて、「観光」というのはそもそも「各所に固有の文化地理的な個性があり」、そちらを訪問するにあたり「平和」で「足」があり、さらに「訪問するだけの旅費が出るほど人々が裕福」でなければ成り立たない成熟産業であることがよくわかる。
「各所に固有の文化地理的な個性」という点では、世界の都市部は急速に均質化をしており、同じようなチェーンやビル群がどの国でも見られる状態になっており、いかに均質で高度で高速であるかが求められているため、今後の観光市場の成熟とともに観光人口は次第に減って行くのではないかと思われる。逆に、地方は各所の名所旧跡の個性を光らせるのにしのぎを削る「個性の戦国時代」に突入しているが、一方で観光促進という意味合いではどこも同じようなゲストハウスや送迎サービスなどの標準インフラを整えている動きにある。つまり地方は地方でオリジナリティと差別化を追い求めながらも、そのインフラにおいては均質化、フォーマット化がなされつつあるということだ。
私の住んでいる奈良の中南部は、その点、どちらの意味でもまだほぼ未開の地だ。
観光客向けに作った電車やバスなどのアクセスもなければ、宿泊地もそうそうない。しかし、知る人ぞ知る温泉名湯もあれば、秘境、食文化、壮大な山々や吉野川といった自然があり、旅慣れた人々の五感を解放し、太古の昔から自然や神々と共存してきた生活に触れてきっと現代人の心を内側から癒してくれることと思う。(私自身がそうだったように)
そういった意味で、奈良で「旅」と「出会い」を扱う仕事をやりたいということと、奈良に実際に身を置いて、同じく江戸時代から住み続けてきた実家で暮らすということは私にとって特別な意味がある。