現代は流動的(モバイル)社会であり、旅人社会である。
観光旅行(ツーリズム)という形の旅はますます全世界に浸透しつつある。二十一世紀には観光旅行行は世界貿易の中でももっとも重要な部門となり、石油を凌駕するであろう。現在でも観光旅行業は合衆国において2番目の小売産業なのである。旅が平凡なものであるという印象は、旅人の項目の中に、旅をしているに違いないが観光旅行の統計に含まれない人々を含めればますます強まる。(中略)大衆観光旅行(マス・ツーリズム)という言葉は、現代の観光業のスケールの大きさ、旅行の大量生産と定型化、旅行の無限反復を暗示する。ターミナル駅、道路、聖地、取引場、市場に群がる旅行客の夥しさは我々に、我々の暮らす社会は旅人の社会であるという事実に注意を促す。このような社会においては、その構成員が生活と生活をつなぎ、意味と地名にみちた世界をくみ尽くすための方法としては、旅行が普通の形態なのである。(中略)旅は、現代生活という織物を織り上げる一つの活動なのである。
東京での弾丸での添乗実務研修が終わって、奈良に戻ってきた。(途中、まさかの夜行バスがこないというトラブルがあったが)
土曜の午後にLCCのジェットスターで関空から成田へ飛んで、東京に戻ってきて夜はお気に入りの馬喰横山のゲストハウスに泊まり、日曜は終日実習受けたその足で夜行バスで戻り月曜の朝には帰宅している。そしてそれらの手配は全てスマホ片手にオンラインで二十四時間いつでも可能だ。今の時代は非常に宿泊・移動に便利なインフラが整っている。昔の人が何日も何日もかけて旅をしていた距離を、当たり前のように時間をかけずに通過する。
こういった背景を予見してか、冒頭の文章を引用したエリック・リードの『旅の思想史』には、「現代社会は旅人社会だ。」と書かれている。
この本が面白い。日本で翻訳されて出版されたのが1993年であることから、「現代」は1980年代後半の時流を指して書いているものと推察できる。そこから20年以上経っているわけだが、今日airbnbやExpediaなどネット販売企業の勢いもあり、ますます世界は便利にグローバルに(標準化されて)繋がっている。人々は容易に日本全国だけでなく、世界中を行き来する。
旅は現代の文明社会においては常態(ノーマル)であり、規範(ノーム)の基準である。現代生活は普通、旅ー数マイルもしくはそれ以上の小規模な日常的旅と数百マイル数千マイルの非日常的な旅ーによって連結・分割・整序化されている。多くの人が記しているように、現代社会は「流動的(モーバイル)社会」なのである。いや、それ以上に現代社会は「旅人社会」なのである。
旅の歴史の中に、旅人社会としての現代の起源、進化、習慣を辿れるかもしれないし、旅人社会としての現代に特徴的な知の諸形式を見いだせるかもしれない。近代的な旅が地球規模で編成され、そのスケールが大きく、量が多い点では現代生活は多分未曾有のものであろう。しかし旅が人間にとって新しい経験でないことは明らかである。流動性(モビリティ)・機動性・遊動性は有史以前の人間の最初の存在様態であり、定住性(セシリティ:一つの土地への執着もしくは固着)はのちの有史時代の存在様態である。歴史の黎明期には人間は移動する動物であった。記録の残された歴史(文明化の歴史)は移動、移住、定住をめぐる物語であり、人間集団の土地への適応、人間集団の地勢への順応、「棲家(ホーム)」の創造をめぐる物語である。現代を理解するためには、過去において流動性が変化をもたらす力(人格・社会的光景・人間的地勢図)を変容させ、地球的規模の文明を生み出す力として旅がどのように歴史的に機能したかを理解しなくてはならない。
人類が有史より前の時代においては遊動的に移動する民であったが、農耕と言う手法を知り定住するようになった、という経緯は以下のサピエンス全史にも書かれている。人類が狩猟採集を離れ、農耕を始め定住していたのは歴史としてはほんの少しの間に過ぎない。
新大陸発見から始まり、資本主義化と共に地球の果てまで探検し尽くされて未開の土地がなくなり、幹線道路が整備され、世界中がインターネットという名の下に繋がれ、自動翻訳による言語の共通化が進み、グローバル(球体)としての統一化・規範化が進む。そんな中で、社会は流動的(モバイル)に戻りつつあり、さらに言うとその性質は有史以前の「食料を追って団体的に流動的」という意味ではなく、「理想の場所を追って個人で流動的」な意味に進化して行った。それが「旅人社会」である。
だからこそ、「旅人社会」である現代を理解するには、「出発・移動・到着を繰り返すという流動性が変化をもたらす力。それが人格、社会的光景、人間的地勢図を変容し、地球規模の文明化を生み出す力として歴史的にどのように機能したか。」、つまり「旅の歴史」を理解することが重要となるのだ。
思えば、現代の「消費型大衆観光旅行時代」においては、旅は享楽的で楽しいバカンス(休暇)と見なされていることが多いが、そもそも「旅が享楽的で楽しい」と言う感覚が固定化したのはトマス・クックによる大衆マスツーリズムの発展があってからだ。「享楽的で楽しい」と言うのは摩擦の苦労がないと言うことであり、摩擦の苦労と言うのは文化交通インフラが未整備である(=グローバルではない)ことへの衝撃である。どの国へ行っても、同じ国のものが同じ言語で同行し、観光客は安全なバスの檻にて行動を羊のように管理され、できる限りトラブルになりうる現地の人との関わりや自由行動をなくし、画一化はされるものの比較的安価に旅程を体験でき、文化差異を感じにくい5つ星ホテルに泊まり、あたかも同国にいながら世界を巡ることができるかのような、摩擦がなくリラックスした滞在が約束される。キャンプでいうと、グランピングみたいな感覚だ。
しかしそれ以前の旅は、「指輪物語」や「聖地巡礼」のような使命を課せられた苦しみ・解決のための「試練」であり、中世になってからは自身を知るための「自己実現」、西洋の貴族達の自己実現のための外遊である「教養」、そして新大陸発見時の「新地獲得の冒険」、ルネサンスからの情報蒐集(ジャーナリズム)としての「アーカイブ」、巷に溢れる本の情報の再精査・再確認のための「哲学・学問」、規範・法律などのがんじがらめの体制から外れて逃走する「自由の獲得」など、時代や世相を反映して「旅の意義」と言うものも移り変わってきた。また、金銭的な意味合いでも、かつては職業的、政治的に必要に迫られたものだけが移動していたものが、富裕層に移り「裕福なものが大衆から逃避するための場所」となり、マスツーリズムが生まれることによって初めて旅が大衆が楽しめるものとなっていく。さらには、政治的な意味合いでは未開の地があるからこそ冒険の意味での「旅」は広がり、やがて全ての場所が調べ尽くされて一つになってしまうと、さらなる未開地を求めてバーチャルや二次元、宇宙という名の「冒険」を創り出し手を伸ばしていく。そういった意味で旅はまさに時代の生活を織り上げる活動なのである。
なので、この本を通して旅のルーツとしての過去・歴史となる起源や進化・習慣を追っていくとともに、その結果となった現代の「情報」の諸形式の積み上げを紐解くことで、現代における「流動的(モバイル)」、そして「旅人社会」の意味合いと、その行く末についてこの本を手がかりに考えてみたいと思っている。
上記で紹介したような様々な旅の意義やそこでの役割なども、一つ一つ造形の深い内容であることから個別にブログに書いていきたいので、今回の内容は本の紹介とイントロだと思っていただければ良い。(色々な切り口がありすぎて、端的に一つにまとめることが不可能だった)