元出雲の亀岡より、丹波の謎について探る
私は、最近どうも深刻な病気にかかっているようだ。
というのも、中央構造線を追いかけすぎて、いちご、エネオス、出光、赤十字、赤ペン先生、サンタさん、医療ドラマの手術シーン、救急車のランプ、戦隊ヒーローのリーダーと、赤いものを見れば何でもかんでも「辰砂(しんしゃ:水銀の原石で赤い)」または「マイロナイト」に見えてしまうのだ。
そういうわけで、直近では同じく重度の辰砂病にかかっている吉野山のゲストハウスの女将ちゃんと「シンシャーズ」というレディースユニットを組みまして、武道館での辰砂ライブを狙っている始末。もちろんコスチュームは赤のチェックである(嘘)。
目次
「丹波」という言葉との出会い
そんな時に、いつも奈良まで遊びに来てくれる丹波の友人を三月に訪問することになったものだから、またしても「辰砂センサー」にひっかかってしまったのである。「丹波」の丹って辰砂なの??
しかし、読者のみんなにも考えてほしい。神武天皇東征ルートでおなじみヤマト政権の財源であったと言われる水銀鉱脈、つまり中央構造線は京都や兵庫の「丹波」と呼ばれる地域には通っていないのだ。
では、何が一体「赤い(丹色)」のか?
そもそも「丹波」とは何なのか?
という話をワクワクしながら女将ちゃんにしたところ、「丹波の丹は日本海側の海から日が上る様子のことだって」とあっさり返事が帰ってきた。え、なんでよ。なんでいきなりそんな非ロジカルな話になるのさ、と思っていたら、「大丹波チャンネル」というyoutubeの動画を教えてくれた。
これによると、「丹波」は「旦波」と書いて、日が上る様子ということらしい。このチャンネルは面白くて色々他のものも見させてもらったし、ぜひ続けてほしいと思っている。
だが、正直なところ私はその答えでは消化不良だった。第一、丹波は丹後を除けば内陸なのに、「波」は本当に「日本海」のことを指して、「丹」は太陽を指していたのだろうか?古代に水辺の地名を使っている場合、大概その場所は川辺か湖などの水底であることが多い。もちろん諸説あるし、事実は誰も知り得ないので考察は自由だ。だが、だからこそ私はもっと納得のいく理由が欲しいのだ。
「丹波」はどこにあるのか
「丹波」の由来は、兵庫県の丹波篠山市のHPによると以下のとおり。
「丹波」とは、兵庫県の篠山市(多紀郡)、氷上郡と京都府の3市3郡の総称で、一般的には兵庫丹波、京都丹波と呼ばれている。国名の由来については諸説紛々。記紀その他の古書には丹波・旦波・但波・丹婆・谿羽などの文字が当てられているが、「諸国名義考」には「田庭なるべし」とある。これは、かつて豊受大神宮(外宮)が丹波国真奈井にあり、皇大神宮(内宮)の御食事の稲を作っていた広く平らな場所の意味だという。昔は赤米が主流だったので、 「赤い米がたわわに実って風にそよぐさまが赤い(丹)波のように見える」というロマンチックな解釈もできる。
なるほど、「田庭」はわかった。この説明や他の説明を読み進めると、「丹波」は広範囲と書きながらも、実質は丹後半島の元伊勢と呼ばれる籠神社(豊受大神を祀る)や伊根地方が中心部だったという説明になっていく。確かに神話的にはあのあたりは重要ポイントであるので、重視されていてもおかしくはない。丹後(旧丹波)の元伊勢に丹波の元出雲とは、物部スタイルの磐座(いわくら)のメッカでなんとも複雑な場所だ。
丹波の歴史と地質
それはそれで良いのだが、それなら何故亀岡地方は「丹波」の漢字があり、「出雲大神宮」の存在する場所になったのだろうか。さらに丹波国の国分寺は亀岡にあった。いや、もしかしたら兵庫丹波と京都丹波と京都丹後では「たんば」の音だけが共通語で、中身の意図はそれぞれ異なるのかもしれない。しかし、果たしてそんなことがあるだろうか。もっと多角的な観点からロジカルに考えるべきだ。
基本的に地名の漢字は後から当てる。なぜなら古代は文字が発達しておらず記録が残せないため、口承伝承にてキーになることは語り部の話や地域歌に込めて伝えていくからだ。その際、音で伝わるため、書きことばが後から当てられるのだ。実際、渡来人のコミュニティが多かった大阪などは、古代朝鮮語にゆかりのある地名が多く、やはり後から別の漢字を当てているため、難読になっているのだ。
それならば、と、今度は亀岡の歴史と地質を調べてみる。これが早い。私はとにもかくにも、辰砂がないのに「丹」の字を使う理由が知りたいのだ。
亀山市HPによると
古代、現在の亀岡盆地は湖(亀岡湖)を形成していたといわれている。すでに縄文時代には人の生活があり、弥生時代には稲作耕作も発達していた。この頃、大陸から日本海側の丹後文化圏に到達した人々は、標高の低い丹波山地を越えて京都盆地に至っていたともいわれるが、その場合には亀岡盆地は大阪湾や奈良盆地につながる重要な経路であった。桂川両岸の比高地には、千歳車塚古墳のような古墳や祭祀跡の遺跡が散見される。
奈良時代には丹波国の中心地として桂川左岸河岸段丘上に丹波国分僧寺と国分尼寺がおかれた。奈良時代にはこの地域を山陰道が通っていたとされ、当時の古道と考えられる道が断片的に伝えられている。桂川右岸では市内中心部から西部にかけて条里道構が広く残っている。なお、千代川に国府があったという説もある。市内には起源を 10 世紀以前のものとされる長い歴史を持つ寺社が数多く所在する。
なるほど、やはり亀岡盆地は昔は「湖」だった。ということは、それにちなんだ灌漑の神話があるはずだ。地図をみると、近くに保津峡があり、その先には秦氏の活躍した嵯峨野に葛野大堰がある。このあたりの神社のルーツを調べると神話と関連性があるに違いない。
神話からみる丹波の起源
そういえば、例のyoutubeの方は「大丹波」「元出雲」という話をしていた。大丹波については、古代丹波地域は丹後・亀岡・篠山あたり一帯を覆う大きく文明度の高いコミュニティであったということだそうで、元出雲については、亀岡に「出雲大神宮」という社があり、その地方は古くから出雲と呼ばれていたそうだ。出雲大神宮の説明によると、出雲大社は出雲大神宮からの勧請で出来たというので、「元出雲」と呼ばれており、島根の出雲大社は、江戸時代までは「杵築大社」と称してたらしい。ただし、これは出雲大神宮側の説明のため、どちらが本当に元であったのかは不明である、とする説もある。ただ、客観的に見ても出雲大神宮は元出雲と称されても不思議ではない、歴史と風格のある場所だ。
ご祭神は出雲大社と同様の「大国主命(大国様とも言われる)」と、「三穂津姫命」とある。そのため、神社には因幡の白兎でお馴染みの、ウサギのモチーフが多い。三穂津姫は、出雲で素戔嗚尊から大国主命に国譲りをした際に妻となった女神である。保津峡の「保津」は三穂津姫の「ほづ」に由来するそうだ。ちなみに出雲では「美保神社」と「みほ」の方をとっているので面白い。亀岡の神話を調べてみると、大正時代に発行された『口丹波口碑集』に、以下のような伝承が残っている。
1)湖水の出来た話
東丹波の最東端の篠村の東はいわゆる大江山であるが、昔この山の西麓に大池があって大蛇が住んでいた。 そして往来の人を取って喰ったそうで、ある時夫婦連れの武士が通りかかったので、早速に蛇が出て女の方を呑んでしまった。これを見た武士はたちまち池中に飛び込んで、蛇の腹中に這い入って刀をもって大蛇の五臓六腑を切りさいた。 さすがの大蛇もこれには参って血を吐いて死んでしまった。 その流れ出る血潮と共に武士は押し出され、危ない命を拾ったと謂う。 そのために池の水は溢れて大江のごとく、見る見る湖と化して赤い波が打ち寄せ初めた。 故に国を丹波と名付け、里を大枝(大江) と称し、この武士の押し流された処が生野である。 (垣田五百次, 坪井忠彦編 『口丹波口碑集』 1925年)
2)桑田郡の起源
この赤い波の打ち寄せる湖を大国主命が諸国御巡幸のみきり、ご覧遊ばれて、これを平野にして民福を授けんと、今の樫田村黒柄岳に八百万の神達を御集めになり、ご相談の結果、樫田村の氏神、樫船明神が樫の木で船を御造りになり、亀岡上矢田の鍬山明神が鍬を作られ、この船にこの鍬を持って数多の神様が御乗込みになって、篠村山本の山麓を切り開かれたため、水は今の保津の山峡を伝って、嵐山の方に流れ、ここに立派な平野が出現した。 命はこの平野に桑の木を植えられた。 よって桑田の名が起ったのである。 そしてそれ等の神々を、この水の流れ出た峡の両側に祭ったのが、俗に沓神として足痛を祈る篠村山本の桑田神社と、保津村岩尾の請田神社である。 桑田神社はもと請田大明神と称し、請田神社は昔は松尾神社と謂った。(垣田五百次, 坪井忠彦編 『口丹波口碑集』 1925年)
他にも、湖の発祥についてだが、「京都亀岡の保津川下り」のHPが非常に詳しくて面白いのでぜひ読んでほしい。これの歴史ブログを担当して書いている人には只者ではない玄人感を感じる。ぜひお知り合いになりたいものだ。その中で「丹波鎮守の杜を巡る旅 シリーズ」を読むと⑴【出雲大神宮】にこんな記述がある。
丹波に伝わる伝説では、丹波の大地をつくった「蹴裂(けさく)伝説」があります。
その内容は、太古の昔、赤い水の湖であった丹波国を見下ろした大国主命が、湖の水を抜き大地をつくろうと考え、この地域を治める八柱の神々を集め相談し、保津峡を開削させて、豊かな土地をつくったというお話です。
この丹波湖の伝説は、「丹波」の名称の由来ともいわれ、丹波国と大国主命の関係性があったということであり、大国主命は出雲系の神様なので、丹波と出雲を繋ぐ面白い伝説といえます。
「赤い水」!?出た出た。これのことではないのか?確かに、盆地内に残る伝承によると、亀岡には赤土の泥湖であったという「丹の湖・丹の海(にのうみ)」があったという。また、これに基づき国名の「丹波」も、「風が吹くと湖に丹色(朱色)の波が立った様子」を表したとする説もあるそうだ。ではその丹色は、何が「赤い」のであろうか?
鉱山と地質学からみた丹波:輝石編
赤いのは「水」ではなくて、「土」ということなのか。辰砂でないとすれば、なんの土なのだろう?こういった神話絡みの話が出てくるところは、大概「鉄」や「鉱山」のある場所が多い。例えば「銅」山などは赤い理由として「どう」だろう?
などと、しょうもないことを言っていないで早速銅山を調べてみる。が、調べたところ、この辺りの鉱山はタングステンかマンガンがメインである。色々調べるあまりにこんな施設まで見つけてしまった(公式HPの温度差には緊張するが、機会があれば行ってみたい)。
丹波マンガン記念館(新大谷鉱山) @京都最強の秘境に挑戦【京都秘境ハンター】 – 京都のお墨付き!
もう少し兵庫側に行けば、多田銅山や生野銀山があるが、そこまでいくと丹波というには少し遠いのではという気もする。と、すると鉱山ではないのかもしれない。「湖の泥が赤い」理由について知りたいのだが、丹色の湖の話はたくさん出てくるのに肝心の「どうして赤いのか」について書いている資料は全く見当たらない。しかし、忘れていたがマンガンが出るということは、バラ輝石(ロードナイト)が産出されるはずではないか!!!
と思って調べてみたところ、これまた兵庫丹波篠山に近い玄武洞ミュージアムの記事と、岩手県野田村のマリンローズパークが出てきたので参考までに貼っておく。どちらも行ってみたいー!!
5月の石はバラ輝石! | 玄武洞ミュージアム
そうかそうか、マンガンの影響で鉱脈にロードナイトが生まれるため「赤」くなるのかあ。いや、それだけでは弱すぎる。第一、マンガンやロードナイトの露頭(地表に表出している箇所)がそんなにあるだろうか。そして、赤い水に見えるまでになるであろうか。もう少し情報がほしい。
しかし、マンガンでロードナイトが生まれるのであれば、タングステン(紫外線でひかる)だって何か赤い影響がある可能性はある。そこで調べてみたところ、タングステンの隙間には方解石(赤い血がとびちったような模様に見える石)があることがわかったが、性質上、ロードナイトと比べても信じられないほど微量しか見られない。これでは言い伝えにはできても、見た目の理由にはならない。鉱脈だけでは仮説として弱いのであれば土そのものが赤いのだろうか?
鉱山と地質学からみた丹波:地質編
タングステンつながりで調べていたところ、そもそも丹波地方の地質には赤色泥岩やチャート(これも赤茶色)が多いことがわかった。「静岡地学 第 104 号( 2011 )」の「中部支部巡検会報告―丹波篠山地質巡検―」という資料をみると、以下のような記述を見つけた。
篠山地域は,先白亜系の地質構造区分上,超丹波帯と丹波帯にまたがり,その上に白亜系の篠山層群,白亜紀後期の火成岩類及び新生界が分布する.超丹波帯・丹波帯の中・古生界はほぼ東西方向の軸を持つアンチフォームとシンフォームの繰り返しから構成され,篠山盆地に分布する篠山層群は篠山―園部シンフォーム部に位置し,向斜構造を呈する.
篠山層群とは,篠山市および丹波市において,超丹波帯の上に重なる比較的狭い範囲の非海成堆積物である.主に礫岩・砂岩・泥岩などの砕屑岩から成る下部塁層と火山噴出物を主とする上部塁層に区別され,下部塁層はさらに基底層(約 120 m)と赤色岩層(約 1,300 m)に区分される.基底部は基底礫岩と黒色頁岩・シルト岩・砂岩から成る.このうち黒色頁岩からは貝化石や貝形虫化石が産出する.赤色岩層は,我が国で他に例のないほど赤色の強い礫岩・砂岩・頁岩からなる.
これは同じ丹波でも篠山地域の方の記述ではあったが、亀岡の山々もそう遠くはない。
また、「丹波地帯研究グループ. 丹波地帯の古生界(その1) : 京都府北桑田郡京北町東部の古生層. 地球科學 1969, 23(5): 187-193」では、丹波地方には広大なチャート地層が広がっているとし、以下の記述もある。
もともと,丹波地帯の調査が,その南部と北部とから開始されてきたのは,これらの地域において,シャーノレスタインが発達して鍵層となりやすく,また紡錘虫やその他の化石を含む石灰岩が,比較的多く見出されるという事情によるものであった.しかし,これらの地域を調査するだけでは,丹波地帯全体の秩序や構造を明らかにすることができず,さらに日本の古生界の堆積環境や古地を解明する上でも寄与しえないことは明らかである.このことが,岩層が単調なうえ,化石に乏しく複雑な構造をもっと予想される丹波地帯中央部の地質研究に,われわれを駆りたてた理由の一つであった.このほとんど未知の地域は,広大なチャート層が発達し,また日本有数のマンガン鉱床の賦存する地帯である.
まあ、突き詰めてみたら丹波って丹波竜とか恐竜の化石出ているし、放散虫多いし、チャートが多いのは何も不思議じゃなかった。チャートが赤いとは限らないものの、赤色泥岩と書かれているし、赤茶色のものも多いのだろう。実際、出雲大神宮のそばの石などをみていたら、水が流れて赤くなっているものも何箇所かあった。
丹波の元出雲とは
結局のところ、亀岡の丹波は昔に亀岡盆地が赤い湖だったことから「丹波」となったという説が私は好きだし、実際のところ納得した。丹波での湖の話については、実際に湖があったという痕跡は見つけられず、亀岡地方が自身たちの伝承のために後付けをしたという学説もある。だが、それでも今までの神話がかなりの頻度で鉱山や地質に結びついてきたことを考えると、丹波地方の個性的な地質は見逃せない理由になる気もする。
赤い理由について考えていたら、先日訪れた出雲大神宮について全く書くスペースがなくなってしまったのでまた後日にするが、亀岡を旅してひとつ分かったのは「水がゆたか」で「霧が多い」ことだ。京都地方ではあまりみない、濃霧注意報なども亀岡のほうでは発出されるらしく、そのため「霧のテラス」という、早朝に濃霧や雲海の亀岡盆地が見渡せる山頂展望台がある。日中もパラグライダーがたくさん飛んでいる素晴らしい見晴らしの場所であった(サムネイル写真は霧のテラスである)。
色々読んでいると、亀岡地方に住むと「洗濯物が乾かなくて困る」という小話も多いようだ。
出雲といえば、島根の「出雲国」の名は「出雲と号する所以は 八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅヌノミコト) 詔りたまひしく八雲立つと 詔りたまひき 故、八雲立つ出雲と云ふ。」とあり、八束水臣津野命が「八雲立つ」と称したために出雲と名付けられたそうだ。つまり、気象特性的に「雲」が出やすい場所であると言うことだ。その意味では、灌漑に苦労し(灌漑前の保津川に濁流の大蛇伝承も残る)、霧や雲の多い亀岡盆地は、元出雲という名に、やはりふさわしい場所なのではないかと思わされるのだ。