2021-06-02

牛頭天王信仰と河内を結ぶ古代からのキリスト教

大阪の歴史を動かしてきた「河内湖」の歴史を追い求めているうちに、思わぬことから大東市に興味を持つことになった私。
前回、河内湖の歴史が非常によくわかる大東市歴史資料館の話をした。

野崎観音の謎〜河内の隠れキリシタンの足跡〜

ここにいくついでに立ち寄った野崎の「慈眼寺(じがんじ)」。野崎観音がある。HPによると、

江戸時代より浄瑠璃や歌舞伎、落語の舞台としても数多く登場し、昭和初期に東海林太郎さんが「のざきまい~りは~、屋形船でまい~ろ♪」と歌われた『野崎小唄』で、広く全国に名を知られるようになる。

江戸時代中期に大和川を付け替えるという大工事が実現し、その後新田開発に力が入るようになっていった大東市だが、それらが落ち着くと水路や船着場が整備され、船にての住道浜、慈眼寺すぐそばの砂州観音浜までいけるようになった。

「野崎観音の謎」という本では、以下のように記されている。

野崎参りを調べるうちに「三箇キリシタン」の華やかな時代に、三箇城主・三箇頼照サンチョが深野池に60隻の飾り立てた船を浮かべ、復活祭(イースター)のパレードをしたことを思い出した。見物の船だけでも200隻ほどにのぼり、約2000人の人々がイエス・キリストの復活した記念日を水上で祝ったという。角堂(いまの住道)にあった三箇教会の「復活祭船上パレード」は十五年間、毎年春の復活祭にあわせて深野池で行われた。日本のキリシタンの間では「最も素晴らしい復活祭」として評価されていたことを忘れてはならない。ところで、野崎参りが以前は4月1日から8日までであったことを考えると、この時期が復活祭と重なっていることにも注目したい。

面白い。ただ、それだけ大々的に栄えた河内のキリスト教だが、時代の趨勢と共に西欧の宗教支配を恐れた織田信長や豊臣秀吉に糾弾されるようになり、キリシタンたちが巧みに言い逃れができるように隠れ、潜伏していくようになる。その際によく寺院などをカムフラージュとして使われ、その場所が慈眼寺であり、鐘楼の内側にクロスが刻まれており、野崎観音はマリア像だったのではないかという仮説が興味深い。徹底的に糾弾されていた世の中であったため、現代にすぐわかるような痕跡が残っていないのも道理だ。

で、本題はここからなのである。(ここまでは以前の記事でもある程度書いている)
その隠れキリシタンたちが十字架がわりにもっていた「祇園守」である。キリシタンが見つかることを恐れながらも大切にしていた十字架のようなモチーフがある。これを売っているのは京都の八坂神社だ。そして大名の池田氏と立花氏はこの十字架をキリスト教のしるしとして用いていたらしいこと。
これらから、キリシタンたちは「牛頭天王」を隠蓑として信仰したのであろう、と。

牛頭天王

ちょっと待った!!!!
「牛頭天王」と言いましたね、アナタ。
京都の八坂神社といえば、牛頭天王といえば、渡来通ならもうピンとくるかもしれませんが「秦氏」にゆかりがある、ネストリウス派キリスト教(古代東方キリスト教)ではないですか!(ここまでは書籍に言及されていないので私が勝手に興奮している)。
あるいは、それらをベースに中央アジアや朝鮮半島に亡命し、さらに日本に流れてきたユダヤのひとたち(朝鮮を経由しているので朝鮮半島からの渡来と思われていることが多いが)系が建てた神社ではないか。大阪にはたくさんある。
ユダヤ教から分派したキリスト教(東方キリスト教はかなりもとのゾロアスターやユダヤ教に近い。西洋キリスト教からは異端と呼ばれることも。)のホームベースを生かして、中世の西洋キリスト教の信者たちが密かに信仰を続けていたとしたら、すごくないですか。あんまりちゃんとまだ調べていない状態だから、学識がある方からみたら「アホか」とおもうかもしれないが、これから探究する価値はある深いテーマである。

多分、「牛頭天王」テーマでこの話は続くよ。

詳しいことが読みたい方はこちらをどうぞ

深野池に関するこちらのサイトも面白かった。

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